STORY

ひな薔薇綺譚の
物語

PROLOGUEプロローグ

  • 気が付くと私はクマに抱かれていました。
  • 温かいと思っていたのは、
  • 彼女の毛皮のせいだったのです。
  • 大きな躰と漆黒の瞳、
  • 金色の太陽のように微笑みながら、
  • 彼女は言いました。
  • いっしょに暮らしましょう。
  • 彼女はあまいハチミツの匂い、
  • 私を待っていてくれる
  • お日様みたいな
  • たったひとつの大きな手。
  • 目覚めた花みたいにほほえみながら、
  • 心の魔法はまだはじまったばかりです。

第二章
リバティハウス

第5話水の花と灰色の影

イラスト ♢ いとりょ

リバティハウスで暮らすようになってから、ひな薔薇は真夜中に目覚めるようになった。無意識の中で、いつもここは森だと錯覚する。さわやかな青、おおらかな緑、白い大気と群青の空、橙色の星が光る森。

ひな薔薇は薄目を開けて天井を見る。寝ぼけているせいで、森に点在するいろんなものが、ひな薔薇の上に降りてくる。それはぼんやりしたまるになって、それぞれのカラーで降りてきてはひな薔薇に溶けていく。

いつしかそんな幻がおさまる頃、ひな薔薇はすっかり目を覚ます。ここは森じゃないと気付いて、ベッドから抜け出す。

翳りを帯びた魂は、うつろうように冷たい手を持て余し、邸を徘徊する。真夜中のリバティハウスは昼間とは違った顔をしている。

とてつもなく古くて、とてつもなく静かだ。

今日は何色のドアの部屋を開けようか…? 

ひな薔薇は紫色のドアの部屋を開いた。四角い部屋の白い壁に、淡い影が浮かぶほどの小さなキャンドルが灯されている。壁に並んだお姫さまと王子さまの絵画を、プチガトーみたいに味わいながら歩く。

その波が終わりを遂げると、ぱちんと指を鳴らしたみたいに、突然少女の肖像画が現れた。ひな薔薇の睫毛がふぁさ、と音を立てた。

金色のフレームの中の少女がひな薔薇をじっと見ていた。黒髪と漆黒の瞳。透きとおるように崇高な肌。
「生きているみたい。綺麗な子」

ひな薔薇は少女に手を伸ばした。指先に透明なガラスがあたって、コトリと鳴った。
「ねえ。あなたは誰?」

ひな薔薇はとんとん、とガラスの上で指先を鳴らした。

床の底から少しずつ水分が滲みでて、ひな薔薇の足元をひたひたと青く浸していった。

部屋のベッドもドレッサーも、部屋の真ん中にある黒いドレスを着たマネキンも、水に足を浸していく。

やがて部屋の水辺に水の花が咲きはじめると、そこから生まれた水の精たちが、小さな声を立てて笑いはじめた。
「どうして笑っているの?」
「だって満月ですもの」
「ほら。窓の外を見てごらん」
「水の花は満月の夜に咲くのよ」

100年前の満月の夜に生まれた水の花は、死んでしまった人々の水分だ。水の精たちは何も語らない。でも、ひな薔薇は想像する。

幸福に暮らしてきた人々のしずくが、きっと無邪気に遊んでいるのね。こんなにも子どもらしく夢みたいに儚いのだから。

水の精たちが、ひな薔薇の肩や腕に掴まって遊びはじめた。月の光を浴びた水はとても冷たい。
「冷たい」
「水玉は冷たいものよ」
「だって水でできているから」

ひな薔薇の声も水の精の声も心許なく、泡になって消滅していく。

壁に灰色の影が揺れている。とても淡くて、触れると消えてしまいそうだ。

水の精やひな薔薇から漏れる泡の言葉を、影は空っぽの口を開けて呑み込む。

壁に浮かぶ影にひな薔薇は駆け寄った。
「誰の影?」

灰色の影は壁から離れて、ひな薔薇の周りをくるくる回る。影はひな薔薇を肖像画へと導いた。絵画の中の少女が消えている。
「影はあの子なの?」

ひな薔薇は喜びともかなしみともつかない気持ちで、そう呟いた。

ひな薔薇の気持ちを見透かすみたいに、影はゆらゆら揺れてみせる。

  私は野いばら。

  かつてここで家族と暮らし、その人生の中でここを後にした。

  命が尽きた後、長い年月を経てこの邸に辿り着いた。

  私が子どもの頃に描いた幼稚な肖像画が、唯一の私の寄る辺なの。

  パパが捨てることのできなかった絵画の中に、私は棲みついている。

  そのちっぽけなうすぐらい愛情が、私の灯火になって輝いている

  ひな薔薇。ずっと長い間、あなたのような人が来るのを待っていたわ。 

影の言葉は誰にも届かない。でも、繋がることを信じているように、女神のごとく踊ってみせる。

影はひな薔薇に纏わりつくと、そのぬくもりを祝福するように、その躰に緩く溶ける。
「私、あなたのママになったみたい。ミス・シルエット」

ひな薔薇はすべて受けいれて、影に頬ずりした。

  ママ? ママ。私の人形王子に会いにいって。

影はひな薔薇の耳元でそう囁く。

ひな薔薇の耳が、天国、もしくは 地獄に向かってささやかに揺れた。

水の精たちは一本のラインになって、ひな薔薇を乗せて空中を飛びはじめた。

コウモリが窓ガラスを突き破り、颯爽と現れ、影はその背に飛び乗った。

水の精たちはしずくを滴らせながら、軽やかにコウモリを追いかける。
「飛ぶのはかなり好きなの」
「くるくる回るのもかなり上手よ」
「逆さまもおもしろいの」
「あなたたち、空を飛べるの? 水色の地球を見てみたい」

真昼のような真夜中のような地球に憧れてるの。
「地球の外のことは知らない」

水の精たちは静かな笑い声を響かせながらそう言って、軽やかに回転する。ひな薔薇は一瞬にして水色の地球を忘れざるをえない。

コウモリは嬉々として羽を広げ、大きく旋回し、疾風のごとく外へ飛び出した。

水の精たちは光のように瞬きながら、コウモリを追いかけた。

邸の庭では薔薇たちが月の光を浴びて澄ましている。コウモリは花びらをかすめるように飛び回り、その翼が巻き起こす風は、水の精を大胆に揺らす。ひな薔薇から水が滴り、笑い声が零れ落ちる。

  大好きな私の薔薇たち。ときを越えてこの庭にあることを誇りに思うわ。

  薔薇たちの色とりどりのドレスは、かつて私のお手本だった。

影の言葉はそのまま風に溶けて、誰にも届かない。ひな薔薇は影に向かって手を伸ばす。ママはここ! いい気分でそう叫んだ。

やがてコウモリと水の精は街の中心へと飛び立った。

ビル群を渡り、テレビ塔を一周する。

誰もいない真夜中の横断歩道。

眠る大通公園。夜の街のひそかな音と匂い。

豊平川に舵を切ると、幌平橋を一気に追い越す。

果樹畑と草原を抜けて南の森へたどり着くと、コウモリは背の高いポプラの木に止まって羽を休めた。夜の森に紛れて、影は躰を揺らして鳴きはじめる。ぽうぽう。ぽうぽう。とても伸びやかな声だ。

水の精たちは遊びで森に雨を降らせた。

湿った土の匂いが森に広がり、ひな薔薇が小さな指で触れると、アヤメやユリが目を覚まし、りりしく背筋を伸ばす。

水の精の笑い声がぱらぱらとそこいら中に広がると、森の中はさらにしんとなる。
「ああ、おもしろかった」
「あたしたち、今日はここで眠るから。あなたはコウモリの背中に乗って帰ってね」
「もっといっしょに遊びたい」
「帰りなさいねぇ」
「えー」

コウモリはポプラの木から飛びたって、ひな薔薇を迎えにいく。ひな薔薇が水に吹き飛ばされてコウモリの背に乗ると、影はすぐにひな薔薇を摑まえた。水の精は水玉になって、森に溶けていった。

コウモリはそのまま空の高いところまで飛んでいった。

空では粉のような星が、ひな薔薇に近づいては遠ざかっていく。
「なに、これ…? 星がこんなにそばにある」

すぐにひな薔薇は粉の星に夢中になった。

星はひな薔薇の指先に止まっては瞬き、暗い燃えかすになって消えていく。

  星じゃなくて私を見て。

長い散歩のおしまいに、影はひな薔薇にぴたりと張りつきながら囁いた。

  青いドアの部屋に閉じ込められている、人形王子を解放してほしいの。

  鍵は私が燃やした。情熱でね。

  私は奇跡の影よ。鍵を燃やしたとき、そう確信したわ。

  ひな薔薇、応えて。

影がくるくるとひな薔薇に纏わりつくと、きゅっきゅっと音が鳴った。ひな薔薇は胸が絞めつけられた。苦しくて、だんだん星が遠ざかっていくのをただじっと見つめている。

ひな薔薇は知らない誰かの笑い声を聴いたような気がした。
「誰かいる? た・す・け・て…」

今夜はいい夢を見られそうにない。ぜんぶが凍っていく。ひな薔薇は冷たくなって、そのままことりと気を失った。

  人形王子を自由にして。人形王子を解放して。

  そうすれば、きっと私は影じゃなくなる。

「私は野いばら。もうすぐきっと、輪郭をあらわすの」

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