STORY

ひな薔薇綺譚の
物語

PROLOGUEプロローグ

  • 気が付くと私はクマに抱かれていました。
  • 温かいと思っていたのは、
  • 彼女の毛皮のせいだったのです。
  • 大きな躰と漆黒の瞳、
  • 金色の太陽のように微笑みながら、
  • 彼女は言いました。
  • いっしょに暮らしましょう。
  • 彼女はあまいハチミツの匂い、
  • 私を待っていてくれる
  • お日様みたいな
  • たったひとつの大きな手。
  • 目覚めた花みたいにほほえみながら、
  • 心の魔法はまだはじまったばかりです。

第一章
ひな薔薇

第2話森の家

野菜の収穫を終えると、ひな薔薇とおばあさまは家へと戻った。家に入ってふっと空気が暗くなる瞬間、守られているような気がして、二人とも安らかな気持ちになる。
 台所のテーブルは、あっという間に収穫した野菜たちでいっぱいになった。
 さっそくおばあさまは、庭で収穫したトマトとバジルでスパゲッティーを拵えはじめた。
「ひな薔薇、キュウリのサラダを作ってね」
「はーい」

ひな薔薇はキュウリを切って、そのうえにミントの葉をちぎって散らし、おばあさま特製のドレッシングを垂らす。小さなボウルの中で、キュウリが輝いている。トマトと、それにチーズとたまごも入れよう。野菜たちは愛情と情熱に応えて、おいしい料理に変身する。台所はいい香りでいっぱいだ。

台所はこの家の魂だ。

窓から柔らかな陽差しが差し込み、床には風に揺れる葉影が映っている。テーブルに料理が並んでいて、好きなものがそろっている。

椅子に座ると、まずは二人で冷たいお茶をごくごく飲む。喉が潤った後は、完璧な昼食のはじまりだ。真っ赤なトマトスパゲッティーと色とりどりの夏野菜サラダ。二人ともじつによく食べる。そして、よく笑う。

二人で食事を平らげると、おばあさまは摘みたてのハーブで温かいお茶を淹れる。
「さあ。お茶を飲んだら、仕事の時間よ」
「はーい」

ひな薔薇は、にっこり笑って返事をした。

♢♢♢♢♢♢

おばあさまは裁縫を生業なりわいとしている。
「あなたには親がいないのだから、裁縫を覚えなさい。そうすれば、私がいなくなった後も、きっと生きていけるのだから」

おばあさまはそう言って、ひな薔薇に裁縫を教えてくれる。

ひな薔薇は人形もおもちゃも持たない。そのかわりおばあさまは、色とりどりの布や細工ボタン、きらきらしたビーズを惜しみなく与えてくれる。ひな薔薇はそれらを使って、好きなものをこしらえる。

裁縫部屋はこの家の心臓だ。

色とりどりの布が棚に収まり、古いミシンはときの流れをそのまま刻むように佇んでいる。ひな薔薇は椅子に掛けて、ハンカチにマーガレットの刺繍をはじめた。白い布に少しずつ小さな花が生まれていく。

おばあさまは生地にパターンを当て、裁断していく。お得意さまから、秋のワンピースの注文が届いているのだ。裁断を済ませると生地にまち針を打ち、仮縫いをはじめる。もう何度も作っている定番のワンピースだからこそ、おばあさまは手を抜かない。

「っつ…」

ひな薔薇は人差し指に針を刺してしまった。指先から、ぷっくりと血液が盛り上がった。
「ひな薔薇、そのままよ」

おばあさまは薬箱を取りにいった。指先の血を吸ってしまいたい。ひな薔薇は衝動に駆られながら、血の玉を見つめる。でも、結局そうすることもしないで、黙っておばあさまを待つ。おばあさまは薬箱を抱えて戻ってきて、大事そうにひな薔薇の指先をつまんだ。

おばあさまはひな薔薇の血液をうっとりと見つめた後、ガーゼでそれをきれいに拭い、絆創膏を貼ってくれた。
「ひな薔薇の血は本当に綺麗ね」

ひな薔薇はおばあさまを見つめた。
「ブルーがかっていて、それでいて鮮やか。しかも鮮やかなのは赤じゃない。ブルーの方。美しい紺碧があなたの中を流れている。あなたの生命いのちの流れを示唆している」

おばあさまの言葉はひな薔薇の心に染みこんでいく。知らない過去の記憶の扉を、不意にノックされたようで、ひな薔薇は蒼ざめた。
「ひな薔薇。あなたの血の色に、ブルーが混じっているなんて素敵でしょう」
「おばあさまは本当にそう思うの?」

おばあさまは頷いた。
「もちろん。ひな薔薇、ブルーはこの世でもっとも美しい色のひとつよ」

おばあさまは傷ついたひな薔薇の手を、そっと握った。
「さあ。仕事を片づけてしまいましょう。その後は、ひな薔薇の好きな遊びをしよう。何でもOKよ」
「何でも? だったら川に行きたい」
「昨日作ったアップルパイを持っていこうか。レモネードも忘れずにね」
「おとといのクッキーも」
「そうね。好きなおやつをたくさん持っていきましょう。さあ、あと三時間と千秒仕事をしたら、川へ行くわよ」

おばあさまの好きな「千秒」は、魔法の単位だ。おばあさまは楽しそうに言う。
「長くもない短くもない時間に意味があるの。たとえば千秒の間に小さな夢を叶えることだってできる。二千秒だったらどうかしら? 千秒が二つもあるのよ。つまり、森の奥の小道まで行って帰ってくることだってできるし、好きな人に会いにいくことだってできる。夢のようじゃない?」

おばあさまはずるをして、千秒の前にたくさんの時間をつけることがあるけれど、それでもひな薔薇はいつだって心躍らせる。ひな薔薇は待ちきれない気持ちで三時間と千秒後を思いながら、布に針を刺した。

♢♢♢♢♢♢

仕事を終えて、ひな薔薇とおばあさまは夏の夕暮れの小川に向かった。川に着くと、二人で石を積んでダムを作り、魚の家をこしらえて遊んだ。ひな薔薇は葉っぱの舟を川に浮かべて、いくつもの舟出を見送りながら手を振った。

それから二人は小川のほとりに並んで座った。冷たい水の流れが足の裏を撫でていく。木々の間を抜ける風は涼しく、水面に薄紅の夕影がゆらゆら揺れている。おばあさまが用意したアップルパイとレモネードを二人で食べる。
「おばあさま。おいしいね」

おばあさまは優しく微笑んだ。
「こうやって川岸にひな薔薇と座っていると、誰かを待っているような気持ちになる」
「おばあさま、誰を待っているの?」
「恋人。好きな人のことよ」

おばあさまは川に映る夕暮れの空を見つめている。ひな薔薇は思う。おばあさまはときどき、種のないきゅうりみたいに青くて弱い。風が吹くと、すぐに折れてしまいそうなくらい独りきりだ。
「ああ。気持ちがいい」

おばあさまはそう言って、ひな薔薇に笑いかけた。
「私はずっとおばあさまといっしょだよ」
「ええ。もちろんよ」

空の高い場所にいちばん星が見えた。おばあさまは微笑みながら、星に向かって手を振った。そして、静かに願いごとを呟いた。
「このうえない幸せが、ひな薔薇に訪れますように」

星の光はそっとふくらみ、それからゆっくりと瞬いた。すぐそばを雫のような流れ星がかすめとおると、おばあさまの顔が輝いた。願いは叶う。おばあさまはそう言うと、夕闇の中、ひな薔薇の手を握りしめた。

♢♢♢♢♢♢

夜の帳が静かに下りると、ひな薔薇とおばあさまは二人それぞれ小さな部屋で眠る。ひとつの部屋の真ん中に、おばあさまが拵えた麻のカーテンを吊るした二つの部屋。

寝室はこの家のオアシスだ。

ひな薔薇はベッドに横になる。ひな薔薇の心に浮かんでは消えていくもの。消えては浮かびあがるものたち。ひな薔薇は微笑む。

枕に顔をうずめ、毛布に包まれて、ベッドに躰を預ける。

躰がふわりと軽やかに解けていく。

一日の終わりは満ち足りている。

今日も楽しかったな。

夏の夜、窓を開けて眠ると、部屋は緑の匂いに包まれる。

しんとした森の真上で、

星々が天に瞬く。

窓は薄緑の気体になって宇宙そらに浮かぶ。

見降ろせば夢の森が広がっている。

前話
PAGE TOP