STORY

ひな薔薇綺譚の
物語

PROLOGUEプロローグ

  • 気が付くと私はクマに抱かれていました。
  • 温かいと思っていたのは、
  • 彼女の毛皮のせいだったのです。
  • 大きな躰と漆黒の瞳、
  • 金色の太陽のように微笑みながら、
  • 彼女は言いました。
  • いっしょに暮らしましょう。
  • 彼女はあまいハチミツの匂い、
  • 私を待っていてくれる
  • お日様みたいな
  • たったひとつの大きな手。
  • 目覚めた花みたいにほほえみながら、
  • 心の魔法はまだはじまったばかりです。

第一章
ひな薔薇

第4話おばあさまの花園

冬になってから、おばあさまは眠っていることが多くなった。少し疲れたみたい。おばあさまはそう言って、昨日からずっと眠り続けている。窓の外では雪が降っている。少し風も出てきて、窓がカタカタ鳴っている。
「おばあさま」

夜になっても起きてこないおばあさまを心配して、ひな薔薇は声を掛けた。おばあさまは薄目を開けて、ひな薔薇を見た。ひな薔薇は思わず手を伸ばして、皺の寄ったおばあさまの頬に触れた。温かい。
「ああ。よく眠った。でも、まだ夜ね。ひな薔薇、久しぶりにいっしょに寝ましょう」

ひな薔薇はこくりと頷いて、おばあさまのベッドに潜り込んだ。ひな薔薇は大きくなった今でも、ときどきおばあさまといっしょに眠る。おばあさまの匂いがすると、ひな薔薇は安心する。

おばあさまのベッドはいつもと同じように暖かかった。でも、おばあさまからいつもとは違う匂いがして、ひな薔薇は心を曇らせた。ひな薔薇は、おばあさまの枯れ葉のような匂いに寄り添った。

おばあさまはいつものようににこにこしていた。顔色は優れなったし、今にも目を閉じそうだったけれど、笑っていた。おばあさまがベッドから手を差し出し、ひな薔薇の手を探している。ひな薔薇がその手をきゅっと握ると、おばあさまは安心したように、ありがとう、と言った。
「ひな薔薇。私が死んだ後、どこへ行くと思う?」
「天国?」
「ううん。もっといいところ。私の好きな花がたくさん咲いている花園に行くの」
「私も行きたいな」
「ひな薔薇には、まだずいぶん先の話かな。あなたももう大人なんだから、わかるでしょう」
「おばあさまは、本当にそう思っている?」
「ふふ。あなたはいつまでも私のかわいい女の子よ。私は花園に行くのだから、死んだ後も今と同じくらい幸せなの。ひな薔薇がこの家にきてくれた日から、私はずっと幸せだった。あなたが私のところにきてくれてよかった」
「おばあさま。私がもっとおばあさまを幸せにしてあげる」
「ひな薔薇、ありがとう。でも、私はまもなく花園へ行くの。これからは、あなたはあなたの好きな場所で生きていきなさい」

おばあさまは嘘つきの天才だ。今の話もぜんぶ嘘だといい。ひな薔薇は、おばあさまの温かな手を握りしめながらそう思った。

♢♢♢♢♢♢

新月の日、夜は静かに深まり、部屋ではオレンジ色の灯がともっている。ひな薔薇はおばあさまの手を握りしめて、その温もりを感じている。おばあさまの目は閉じられたままだ。

おばあさまがいってしまう。かなしい予感がよぎると、ひな薔薇は恐くて震えた。そして祈るようにおばあさまの手を握りしめた。

♢♢♢♢♢♢

明け方、微笑むような穏やかな表情で、藍色の影をまとい、おばあさまは静かに天に召された。

ひな薔薇は深い水底に放り出されたように独りぼっちになった。

♢♢♢♢♢♢

ひな薔薇はおばあさまが亡くなった後も、その亡霊といっしょに暮らし続けた。ひな薔薇は今でもおばあさまの声を聴き、ぬくもりを感じている。

おばあさまの骨壺を抱きしめながら、いっしょにごはんを食べて、針仕事をする。

おばあさまの裁縫箱は、いつもの場所にいつも通り。

何も変わらない。

今日もおばあさまを抱きしめながら、ひな薔薇は台所で料理をする。
「おばあさま、温かなスープができたの。今日は寒いからたくさん食べてね」

おばあさまはありがとう、と笑って応えてくれる。
「おいしい?」
 ――おいしい
「胡椒を入れすぎたかもしれない。辛くない?」
 ――辛くない
「おばあさま、雪が降ってきた」
 ――雪が降ってきた

おばあさまの声は雪に吸収されて、それきり聞こえなくなった。ひな薔薇はスープの上に、自分の涙が零れ落ちるところを想像した。

泣くってどういうことなんだろう。

涙って綺麗なものなのかな。
「おばあさま、おばあさま」

ひな薔薇はテーブルにスプーンを置いた。

ことり、と部屋の中に音が鳴り響いた。

♢♢♢♢♢♢

おばあさまの残酷な嘘。

ひな薔薇が十四歳の秋のことだ。

おばあさまは台所でアップルパイを焼いていた。家の中はバターとシナモンの好い香りがして、やがてオーブンのタイマーが出来上がりのときを知らせた。

ひな薔薇はミントとカモミールのお茶を淹れてから、テーブルに着いた。おばあさまは焼きたてのアップルパイを皿に乗せている。

外は厚い雲に覆われて、今にも雨が降りそうだった。おばあさまはひな薔薇の前に皿を置くと、ゆっくりと椅子に座った。
「今日はクルミとレーズンも入れて焼いてみたの。とても贅沢なアップルパイよ」

ひな薔薇は金色に発光するアップルパイを頬張った。
「おばあさま。今まででいちばんおいしい」

よかったわ、とおばあさまは微笑んだ。やがて雨が降り出した。
「秋の長雨かしら」

おばあさまはお茶を飲みながら言った。おばあさまはアップルパイにまだ手をつけていなかった。
「おばあさまは食べないの?」
「全部、ひな薔薇にあげてもいいくらい」

おばあさまは優しかった。

優しすぎて恐かった。

生ぬるい空気と雨の音で、台所は海の底のように昏く満ちていった。
「ねえ、ひな薔薇。秘密を教えてあげようか?」
「秘密?」
「これから話すことこそ、本当のことよ」

おばあさまの顔はいつになく真剣で、ひな薔薇の心臓がきゅっと縮まった。
「あなたが生まれてまもなく、私の親友夫婦が外国で暮らすことになったの。二人ともとても勇敢なお医者さんで、どうしても人を助ける仕事を続けたかった。二人の向かう先がとても危険な地域だったから、数年して二人が帰ってくるまでの間、あなたを私に預けていったの。でも、途中で、二人と連絡が取れなくなってしまった」

おばあさまは一息ついて、お茶を飲んだ。
「二人は死んでしまったの?」

おばあさまは首を横に振った。
「わからない。でも、おそらくは。部屋に二人の親友の写真があるわ。あなたに見せるのは、まだ先のことだと思っていたけれど」

おばあさまは真っすぐにひな薔薇を見つめた。おばあさまの瞳が潤んでいるような気がした。写真もあると言っている。でも、多分本当のことじゃない。ひな薔薇は立ち上がろうとするおばあさまを、その手で止めて言った。
「おばあさまは嘘をついている」

おばあさまはにこりと笑った。
「嘘じゃないわ。あなたにパパとママの写真を見せてあげる」

おばあさまは写真を探しにいった。おばあさまなんて大嫌い。ひな薔薇は小さな声で呟いた。

寝室の部屋のドアを開けておばあさまがぱたぱたと歩く音が聴こえて、ひな薔薇の胸は鳴った。すごく変な人たちだったらどうしよう、と思った。でも、そんな心配は無用だった。

おばあさまから渡された写真には、とても綺麗な男の人と女の人が写っていた。まるで映画スターみたいだ、とひな薔薇は思った。
「ママはあなたに目元が似ているでしょう」

おばあさまはそう言った。言われてみればそう思えないこともなかったけれど、似ても似つかないような気もする。でも、いくらおばあさまでも、ここまで手の込んだ嘘はつかないだろう。
「ひな薔薇。信じた?」

くすくすとおばあさまは笑った。
「これは私が昔好きだったスターの写真。手に入れるのに苦労したんだから。永久保存版よ」

ひな薔薇はくやしくて唇を噛み締めた。おばあさまはひな薔薇の髪の毛をくしゃくしゃに撫でながら言った。
「どうしてかな。ときどきあなたがかわいすぎて、めちゃくちゃにしたくなるの」
「おばあさまのいじわる」

ひな薔薇が声を震わせてそう言うと、おばあさまは彼女の頬に触れて言った。
「涙が出ないって、どんな気持ちなんだろう」

おばあさまはひな薔薇の瞼にキスをした。

♢♢♢♢♢♢

ひな薔薇は思う。

おばあさまは花園に行くと言っていたけれど、きっと別の場所にいる。

そこには花も木もなくて、小さな沼のような湖が浮かんでいる。

おばあさまは湖に自分の顔を映して、憂いながら笑っている。

おばあさまはどこか堕落していて投げやりで、それでいて天使だった。

おばあさまに天国は似合わない。

ひな薔薇は微笑んだ。しんとした家。

おばあさまがひな薔薇につけた傷のひとつひとつが、いとしいと思った。

窓の外に広がる雪の森。ひな薔薇はおばあさまが編んでくれた白いセーターとミトンを身に着けると、外へ出た。ひな薔薇は冷たい雪に触れたかった。躰は熱を秘めて風を切る。雪に包まれると心が軽くなった。

ひな薔薇は今はじめて目覚めたように、足先に力を込めて立ち尽くした。

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