ひな薔薇綺譚の
物語

PROLOGUEプロローグ
- 気が付くと私はクマに抱かれていました。
- 温かいと思っていたのは、
- 彼女の毛皮のせいだったのです。
- 大きな躰と漆黒の瞳、
- 金色の太陽のように微笑みながら、
- 彼女は言いました。
- いっしょに暮らしましょう。
- 彼女はあまいハチミツの匂い、
- 私を待っていてくれる
- お日様みたいな
- たったひとつの大きな手。
- 目覚めた花みたいにほほえみながら、
- 心の魔法はまだはじまったばかりです。

第一章
ひな薔薇
第5話ひな薔薇の運命

雪の森はしんとして、無音の世界が広がっている。木々は天に向かって祈るように立ち、雪の結晶がひな薔薇に降りつもっていく。ひな薔薇は空を見上げる。もう何もいらない。ひな薔薇の白い息が空中に広がっていく。
ひな薔薇は森の奥へと向かう。冬の森には道がない。ひな薔薇はユキウサギの足跡を見つけて、それを追いかけるように雪を漕いでいく。雪に風が混じってきた。ひな薔薇の頬に風雪が吹き、手足はどんどん冷たくなっていく。
真っ白になりたい。ひな薔薇はそう願った。今、過去も未来もひな薔薇を通りすぎて、空白に向かっていると感じる。なんて気持ちがいいんだろう。ぜんぶが遠い。見たことのない純白が、ひな薔薇の前に広がっている。
ひな薔薇は真っすぐに白に向かった。手足の指先が白くなり、腕が、胸が、頬が白くなり、唇が白くなっていく。すぐにでも、躰のすべてが白く変化することをひな薔薇は願った。私はこのまま雪になるのかもしれない。そうなるといい。
ひな薔薇はミズナラの木ルビーの元にたどり着くと、その幹に寄り添った。ここなら深く眠れそうだと思った。雪になってルビーの上に降りつもりたい。ひな薔薇はルビーのもとで横になり、目を閉じた。真っ白な世界が広がった。
♢♢♢♢♢♢
ルビーの幹が、わずかに震えた。冷たい木肌がひな薔薇の背にそっと振動を伝える。
「眠ってはいけない」——その揺れがそう語りかけてくる。
ひな薔薇の躰がかたむくと、ルビーの枝が音もなく伸びて、折れることなくその身を受けとめた。太い幹が静かに割れ、内側の暗がりがゆっくりと開いていく。幹の奥では三百年もの間、冷たい光が眠っていた。
ひな薔薇は吸い寄せられるように、その中へと導かれていった。雪を抱いた髪が宙に舞い、胸の前で腕を交差させて、まるで身を預けるように沈んでいく。内側から湧きあがる光が、波紋のように広がりながら、ひな薔薇の躰の奥へ染み込んでいく。
ルビーの光がひな薔薇に流れるたび、その気力は波のように高まっていく。夜になり、ようやくひな薔薇の指先が微かに動き、頬に紅が差しはじめると、ルビーは満ち足りた深い声でひな薔薇に話しかけた。
「ひな薔薇、目を開けて」
ひな薔薇はルビーの言葉に微かに反応する。生気が蘇りつつある。ルビーは大きな枝ぶりの腕で、ひな薔薇を自らの天辺まで導いた。
「ひな薔薇、目を開けるんだ」
ひな薔薇はうっすらと目を開ける。ここはこの世の終りじゃない。ひな薔薇は失意の中、遠くを見つめた。小さな灯りが揺れているのが見える。
雪になりたかった。家に一人でいるとき、緊張することに飽きて吐きそうだった。暖かな部屋でスープを飲んで眠るより、冷たい雪の中で凍える方がいい。私は雪になって、誰かに降りつもりたかった。たとえばルビーに、たとえば動物の死骸の上に、たとえば知らない誰かの髪の上に。
そうすれば、きっとみんなが私のことを思い出す。それから私は、焼きつくような太陽になって、みんなを真っ白に照らしたかった。すべて白に焼き尽くして、やがて鮮やかな花が咲きほこるまでそうしていたかった。
「灯りが見えるだろう。獣の家だ。ここからそう遠くない」
柔らかな声がささやく。ひな薔薇は、夢の世界から現実の世界へ、完全に引き戻された。
「誰?」
「ミズナラの木ルビーだ。おまえが私につけた名前だろう」
「ルビー」
「おまえはもう大丈夫だ。ただし、躰を温めなければ死んでしまう。私はおまえに温もりを与えることができない」
「本当にルビーなの?」
ひな薔薇は呟いた。ルビーは枝を震わせて応えた。ルビーが織りなす夏の木陰で、何度遊んだことだろう。真っ赤に燃える秋のルビーに、どれだけ憧れたことだろう。ひな薔薇は、ルビーの枝をそっと抱いた。
「夢を見ていたのかな、私」
「私だって夢を見ることがある」
「ルビーも? どんな夢?」
「ひとつも覚えていない。いつも余韻だけが残っている。光とか、雨とか、雪とか、そんなちっぽけな余韻だけだ。でも、私は夢を見るのが好きだよ」
「私、ルビーの夢になりたい」
「ひな薔薇は私の夢の一部だよ。おまえの光はじわじわと誰かを温める。とても素敵な余韻だ。ひな薔薇はそういう子どもだよ」
「私がルビーの夢の中で、あなたを温めている?」
「そうだよ、ひな薔薇」
「私、雪にならなかったのね」
「ああ。それでよかった」
「私、ここにいちゃいけない?」
「今は躰を温めるんだよ。そしておまえには、あの家に棲む獣の力が必要だ」
「私は冬の森のひとつになりたいだけ」
「生きるんだ、ひな薔薇」
開いた幹をルビーは音を立てて閉じはじめる。耳が張り裂けそうな苦々しいその音に、ひな薔薇は思わず耳を塞いだ。
「ひな薔薇、耳を開きさない。私の声を聴きなさい。私の力を思い知りなさい。おまえの命はおまえだけのものじゃない」
ルビーの朽ちた枝がどさりと地面に落ちた。ひな薔薇は両手で顔を覆った。
「ひな薔薇、目を開きなさい」
「ルビー、私のせいなの?」
「誰のせいでもない。古くなった私の一部が、朽ちて閉ざされただけだ。私は何度でも蘇る。ひな薔薇。目と耳を開いて感じなさい。喜びもかなしみも、おまえのものだよ」
「……私、躰を温めたい」
ひな薔薇は凍える自分の躰を抱きしめてそう言った。
「いい子だ。ひな薔薇、行きなさい。歩いていけるね?」
「うん」
「ひな薔薇、また会おう」
「きっと。ルビー、ありがとう」
ひな薔薇はルビーの天辺から飛び降り、雪の地上に着地した。
雪にはなれなかったけれど、この風の中でちゃんと立とう。
ひな薔薇は獣の家に向かって歩きだした。