ひな薔薇綺譚の
物語
PROLOGUEプロローグ
- 気が付くと私はクマに抱かれていました。
- 温かいと思っていたのは、
- 彼女の毛皮のせいだったのです。
- 大きな躰と漆黒の瞳、
- 金色の太陽のように微笑みながら、
- 彼女は言いました。
- いっしょに暮らしましょう。
- 彼女はあまいハチミツの匂い、
- 私を待っていてくれる
- お日様みたいな
- たったひとつの大きな手。
- 目覚めた花みたいにほほえみながら、
- 心の魔法はまだはじまったばかりです。
第二章
リバティハウス
第2話水緑の魔法術
水緑はひな薔薇の部屋になるであろう場所の天井に貼りつき、ひな薔薇と花音がやってくるのを待ちわびた。ひな薔薇が訪れる今日の日のために、キツネの名にかけて、特別な呪文を準備した。それには花音も賛成した。森にひとりで住んでいるという人間が、人間たるはずがない。人間たるはずはないけれど、確かに人の子なんだろう。化かすことはきっと簡単だ。
ひな薔薇、とにもかくにもお手並み拝見とまいりましょう。
ようやく二人がやってきたとき、水緑に緊張が走った。今度の術は失敗するわけにはいかない。とても厳しい術だ。決してひな薔薇を殺さないよう、気を付けなくてはならない。水緑は目を閉じ、集中力を高める。睫毛の震えが止まり、指先の震えが止まった。
いける。水緑は再び目を開けた。
ここはリバティハウスで最も小さな部屋だ。天蓋付きのベッドの両脇に、ピンクブルーのシェードを被ったランプ、マホガニーのテーブルと椅子、ビロードのカーテンが佇んでいる。
「ここをあなたの部屋にするといいわ。ひな薔薇は小さい部屋が好きよね」
「どうして知っているの?」
「ふふ。森の民のことは何でも知っているわ。この部屋はいちばん日当たりがよくて、庭もよく見えるのよ」
窓の外には華麗な薔薇園が広がり、色とりどりの花が咲き誇っている。ひな薔薇は感嘆のため息をついた。
「どうして気付かなかったのかしら。そんなことってある?」
ひな薔薇のよろこびが部屋の中に広がるように、あまい匂いが立ちあがった。水緑の愛するそのかおり。
ああ。みずみずしいフルーツとソーダ味のアイスキャンディが食べたい。水緑は雑念を追い払い、満を持して呪文を唱えはじめる。
「薫風烈風微風疾風青田風暴風嵐…」
「シリウス、リトルダーリン、イングリットウェルブル、サンフレアー、レモンフィズ」
花音が薔薇の名を呼ぶ声が重なると、やがて水緑の声は掻き消された。水緑はますます強く念を込める。
「庭の薔薇の名前、まだまだたくさんあるのよ」
ひな薔薇は花音を見上げた。古い記憶のように、ひな薔薇を埋め尽くすであろう薔薇たちの名前。
「ムーンダンス、ハニーパフューム、オレンジスプラッシュ、アンジェラ…」
ひな薔薇の意識が遠退きはじめたのが見てとれる。水緑はナイフの視線で彼女を見つめる。ひな薔薇の躰がゼリーみたいにふるふると溶けていく。術は成功だ。
窓がいっせいに開き、部屋の中を幾千もの薔薇の花びらが飛び交うと、水緑は高らかに笑った。花びらはひな薔薇を呑み込んだ。
辺りは濃密な黄色い光に満たされて、ひな薔薇は宙に浮かぶ。はじめてひな薔薇と目が合った瞬間、水緑は目を吊り上げて笑ってみせた。
「ようこそ、ひな薔薇。キタキツネの水緑、参上」
シャンと音を立てて床に降りると、水緑は両腕を広げた。ひな薔薇は水緑の手中に陥った。ひな薔薇は軽い。穴の開いたバームクーヘンみたいに重さがなかった。
水緑はおいしいお菓子を愛でるようにそっと、ベッドにひな薔薇を横たえた。ひな薔薇はぐったりして水緑を見ている。とろんとした瞳が水緑を見てつぶやく。かわいい…
瞳から銀色の光、
黒のドレスは肩にかけてたっぷりのレースが施され、
胸元にエメラルドが輝いている。
永遠の漆黒を纏う風化した星が
光と翳の狭間で踊っている。
私は誰よりもかわいいに決まっている。ごらん、私の睫毛の先を。
「いかにも」
水緑はおおらかに答えた。
「とにかく、倒れなかっただけましよ。褒めてあげる」
「…あなたの唇、さくらんぼみたい」
「リップは綺緑堂の新作055番。みずみずしい赤、フルーツの唇がすぐに実現できる。あなたにプレゼントしてもいいわ」
ひな薔薇は黙って首を横に振った。唇が微かに動く。…あなたが持っていて。
「ここではちゃんと主張しなくちゃ、生きていくのが大変よ。たとえば食べるものが欲しいときは牙を剥いてみせるとかね」
「…き…ば」
「ほら。これよ」
水緑はそう言って牙を剥いて見せた。ひな薔薇は少しだけ目を見開いたように見えた。ひな薔薇の目の縁からぷくぷくと透明な泡が浮かんでは消えていく。眠りに落ちる寸前だ。
「…すごく眠いの」
ひな薔薇は言った。ひな薔薇にはもうひとつ大切な術を施している。しかもすでに成功は目に見えているのだから、眠るにはまだ早い。生き延びるべき、と伝えようとしたとき、花音の腕が水緑を止めた。
「水緑、下がりなさい」
「はい。花音」
花音の腕が飛び出したとなれば、吹き飛ばされないうちに水緑は下がるしかない。
「ひな薔薇、お洋服はお気に召して?」
花音の言葉にひな薔薇は静かに起き上がった。ひな薔薇はその身に纏っていたものとは、別の洋服を纏っている。水緑秘伝、身代わりの術。
「私、夢みている?」
「夢じゃないわ。ほら。鏡の前でごらんなさい」
花音が差し出す手に導かれて、ひな薔薇は部屋の片隅にある鏡の前に立った。水色のワンピースはひな薔薇のためにあつらえた、ひな薔薇のための洋服だ。
ケープの襟にレースが施され、
程よく膨らんだ袖は翼みたい。
裾は控えめのフリルに
かわいい白薔薇が咲いている。
慎み深いけれど華やかな洋服に、
小さな夢が広がっている。
「嘘みたい。衿ぐりも脇もウエストもすべて、あつらえたみたいにぴったり。それによく似合っている。こんなに綺麗な洋服、見たことがない」
ひな薔薇はうっとりと言った。
「似合っているし大好きだけど…私が着ていた洋服はどこ?」
「あなたの大切なお洋服はワードローブにしまっておきましょうね」
花音はクローゼットを開けながら言った。ひな薔薇の木綿のワンピースがそこにあって、花音はそれを柔らかなシルクのカバーで覆った。
「シンプルな洋服も美麗な洋服も、どちらも美しいものに違いないわ。すなわちあなたは何も失ったりしない」
「私の洋服はすべておばあさまの形見。とても大切なものなの」
ひな薔薇はハンガーからワンピースを外すと、それを抱きしめた。
「いつもの場所、いつもの洋服があなたのすべてじゃない。あなたは縫う人。あなたの静かな愛情が必要な人たちがいる」
ひな薔薇は花音を見上げた。でも、それはほんの短い時間だった。眠気がひな薔薇を覆い尽くすように、彼女は花音に寄り掛かった。花音のドレスにひな薔薇の躰がのめり込むと、大きな腕が彼女を包み込んだ。
花音が静かに躰を揺らしはじめると、たちまちひな薔薇は眠りに落ちた。