ひな薔薇綺譚の
物語
PROLOGUEプロローグ
- 気が付くと私はクマに抱かれていました。
- 温かいと思っていたのは、
- 彼女の毛皮のせいだったのです。
- 大きな躰と漆黒の瞳、
- 金色の太陽のように微笑みながら、
- 彼女は言いました。
- いっしょに暮らしましょう。
- 彼女はあまいハチミツの匂い、
- 私を待っていてくれる
- お日様みたいな
- たったひとつの大きな手。
- 目覚めた花みたいにほほえみながら、
- 心の魔法はまだはじまったばかりです。
第二章
リバティハウス
第4話アフタヌーンティー
ひな薔薇さま、リバティハウスにようこそいらっしゃいました。わたしは羊の執事、メイでございます。リバティハウスについて、この邸の住人について、お話させていただきたく存じます。しばしお時間を頂戴いたしとうございます。
まずはわたしの自己紹介から。わたしがリバティハウスに執事として仕えるようになってから、ずいぶん長い年月が経ちました。ここでの花音さまとの暮らしは、わたしにとってエデンの園そのものでございます。
森の中で迷い震えていた子羊のわたしは、花音さまに拾われてここで暮らすようになりました。花音さまは優しさと凶暴さを兼ね備えた森の女王です。
「メイ。あなたはリバティハウスの忠実な執事になりなさい。この邸にふさわしい知性と気品を身に着けなさい。あなたはわたくしに選ばれた身。よろしくて? 迷うことを卒業したあなたはもう森へ帰らなくてもいい。わたくしという夢の世界で生きなさい。それともわたくしに食べられたい?」
子羊のわたしは、花音さまの温かな胸の中で、幻のようなそんな言葉を聴きました。気が遠くなるような美しい声。わたしは花音さまの作り出す夢の世界で目覚め、今なおそこに棲み続けているのです。
むろんここで暮らしているのは、花音さまとわたしだけではありません。わたしは執事の身、ここで暮らすすべての方々のお世話をさせていただくことが、花音さまに命ぜられた仕事であります。
キタキツネの水緑さまは魔法術をたしなみますが失敗も多く、犠牲者への贖罪の気持ちを持ち合わせることもなく、わたしに言わせればかなりの性悪でございます。昨日もひな薔薇さまに術を用い、あなたは立ち上がることさえ困難、昏睡状態に陥りました。その節は失礼いたしました。お詫び申し上げます。
水緑の術の上達のためには失敗はつきもの。水緑の術にかかれば、皆心露わになる。術をかけたもの、術にかかったもの、どちらも静かに見守りなさい。
花音さまの言葉に深く納得し、頷くしかないわたしですが。
水緑さまは今や花音さまの右腕でございます。花音さまのデザインされた美しいお洋服を、その術で実現に導くのが水緑さまの仕事です。
花音さまの施す厳しい訓練に負けないしたたかさを内包する水緑さま。お洋服を作りだす術に関しては一段と長けてまいり、今やリバティハウスの繁栄にすばらしい恩恵をもたらしております。
水緑さまの性格やけじめの術もあわせて真面になりますよう、執事の身として祈るばかりでございます。
ユキウサギの空雪さまはシャイで臆病なため、ほとんどの時間穴の中でお過ごしになります。リバティハウスには、空雪さまがこしらえたいくつもの穴がございます。
空雪さまが穴を伝い、故郷の森からリバティハウスに辿り着いたことを、何かの縁と捉えるべきか、それとも花音さまが誘い込んだのか。花音さま以外の誰も知る術はございません。
そして昨日花音さまは、禁断である「人」を仲間に引き入れました。ひな薔薇さま、あなたでございます。リバティハウスのお客さまは、むろん「人」が大半でございます。「人」は花音さまと水緑さまがこしらえるお洋服に光を求めて群がります。
「人」が運んでくる様々なもの、それらがリバティハウスを存続させるために必要であろうことは、もちろんわたしも承知しております。
とはいえやはり「人」は決して油断してはならない、別世界、別の種の者、苦い果実でございます。
しかしながらあなたにつきましては、そんなことは杞憂でございました。
ひな薔薇さまのために開催されたアフタヌーンティーパーティーは、本日お昼間、薔薇の咲く庭で開かれました。
最初の一杯はジヴェルニアアートのカップ&ソーサーにアールグレーが定番。ベルガモットのフレーバーに薔薇たちは目覚め、花びらに水玉が弾け、ふくよかな香の膨らみがそこいら中に広がります。
苺のマカロン、薔薇色のムース、蜜林檎のシブースト、ハーブのスコーンとクロテッドクリーム、そして蟹のサンドイッチ。テーブルの真ん中にそびえ立つ、2メートルを超えるいちごケーキは水緑さまの悪戯でございます。
「ひな薔薇、リバティハウスへようこそ。わたくしたちはあなたを歓迎するわ」
「ありがとう」
花音さまの言葉にひな薔薇さま、あなたはささやかな声でお応えになりました。
「いちごケーキは私からのプレゼント。全部食べてね」
水緑さまの言葉に、ひな薔薇さまはケーキを見上げましたね。ひな薔薇さまは微笑みながらフォークを手に持ち、ケーキを掬って口に入れ、目を瞬かせておりました。これは、もしかしたら、とわたしは思いました。
「おいしい」
ひな薔薇さまは次々にいちごを摘まんで、口に入れていきます。すっかりそれがなくなると、今度はクリームを、そして裸になったスポンジケーキを、順番に平らげていきました。
「おいしい」
ひな薔薇さま、あなたは再びそう言いながら、うるわしの微笑みを浮かべられました。あまずっぱいいちご、コクのある生クリームにたっぷりの密を含んだスポンジケーキ。リバティハウスのパティシエの最も得意とするショートケーキは、おいしいに決まっている代物でございます。
しかしながら水緑さまの術に化かされることなく、惑うことなく、それを口にして平らげてしまったひな薔薇さまに、不本意ながらわたしは感銘を受けずにはいられませんでした。
「ふふ。水緑、あなたの負けね」
水緑さまはマカロンを頬張りながらウインクをし、花音さまに応えました。相変わらずの根拠なき余裕の表情でございます。
「メイ、空雪は?」
「花音さま。一昨日からお姿を拝見しておりません」
「だったら呼ばなくちゃ」
花音さまは水緑さまに目配せしました。空雪さまのためのささやかな宴がはじまるのです。
「ひな薔薇。目を閉じて。歌に合わせてリズムを刻んで。手拍子で、あるいは足踏みで、あるいは心臓のビートで。空雪を呼ぶのよ。次に目を開けたときには、あなたの隣に座っているはずよ」
花音さまと水緑さまは美しいハーモニーで歌いはじめます。月と太陽をよぎり、手・足・心臓、それぞれのリズムが花々に伝わり、空に抜けていきます。
青空に天使の輪が浮かび、穏やかな光を放つころ、シマエナガのユキが現れ、白になったり透明になったりしながら鳴きはじめました。ユキがひな薔薇さまの肩に止まると、空雪さまは飛んでやってまいりました。空雪さまはひな薔薇さまのそばに立ち、ユキを見つめていました。
「あなたが空雪?」
ひな薔薇さまの言葉に空雪さまは涙を浮かべました。はじめて会う者に涙であいさつをされるのが空雪さまでございます。恐れと恥じらいが混じり合い、震えながら相手をじっと見つめるのは、いつものことであります。動物は泣かないと申しますが、空雪さまに(もしくはウサギに)ついては、当てはまらないようでございます。
ひな薔薇さまはユキを人差し指に乗せて、空雪さまの指先にそっと乗せました。すると次の瞬間、奇跡が起きたのです。空雪さまがひな薔薇さまの胸に顔をうずめ、涙を拭ったのです。
ひな薔薇さまは空雪さまを抱きしめました。空雪さまは顔をあげて微笑み、その尊さにわたしは涙ぐまずにはいられませんでした。
ひな薔薇さまは誰も触れることのできなかったユキに触れ、誰も抱くことのできなかった空雪さまを抱いたのです。やはり、と私は考えました。花音さまはすべて見通されていたのです。
「メイ。ひな薔薇といっしょなら果たせる。種を超えて、わたくしたちとともに」
花音さまの言葉に、わたしは頷きました。
「メイ。ミルクティーの用意をしてちょうだい。マグでたっぷりと」
「かしこまりました。香り深いタイティーをご用意いたします」
花音さまは高らかに手拍子しながら、ひな薔薇さまの到来を祝福します。水緑さまは昼間だというのに花火を打ち上げはじめました。わたしはわたしで、得意のバイオリンを奏で、ひな薔薇さまを歓迎させていただきました次第です。
ひな薔薇さま。どうかこのリバティハウスで、すこやかにお過ごしになられますように。
魔境であり、物の怪の巣窟である、この場所で。