ひな薔薇綺譚の
物語

PROLOGUEプロローグ
- 気が付くと私はクマに抱かれていました。
- 温かいと思っていたのは、
- 彼女の毛皮のせいだったのです。
- 大きな躰と漆黒の瞳、
- 金色の太陽のように微笑みながら、
- 彼女は言いました。
- いっしょに暮らしましょう。
- 彼女はあまいハチミツの匂い、
- 私を待っていてくれる
- お日様みたいな
- たったひとつの大きな手。
- 目覚めた花みたいにほほえみながら、
- 心の魔法はまだはじまったばかりです。

第一章
ひな薔薇
第1話夢の森

風が吹くと、シラカバの木々がいっせいに揺れる。
水色の空がずっと遠くの方にあって、
薄い雲が流れていく。
風がひな薔薇の頬をくすぐる。
ひな薔薇の住む夏の森は青空と緑でできている。もちろん、雨の日だってある。旅の途中の雨が、静かに或いは情熱的に森を通りすぎるとき、ひな薔薇の胸はいつだって高鳴る。
鮮やかな緑は潤みながら風に揺れ、空気は明るく澄み渡る。目を閉じていても緑を感じることができるし、空さえ手に取るようにそこにある。それはまるで夢の果てのようだ。
たとえばここを夢の森と呼ぼう。
ひな薔薇とおばあさまが二人で暮らす古い家は、枯れた木々を彷彿とさせる。家の前には緑の小道、それを挟んで片方に野菜畑があり、もう片方には花畑が広がっている。緑々と、きらめく恵みにあふれている。
♢♢♢♢♢♢
ひな薔薇とおばあさまは、今日も庭の畑で野菜を収穫する。
「ひな薔薇。トマトを捥いでちょうだい。キュウリも大きくなり過ぎるから、収穫しなくちゃね」
おばあさまはハーブを摘んでいる。そばで蝶々が飛んでいくのを眺めていたひな薔薇は、はーい、と返事をして立ち上がった。ひな薔薇は立ち止まったまま、風の音に耳を澄ました。
ざわざわざわ。るるるー。ざわざわざわ。るるるー。蝶々は目の前を横切った後、風に乗ってどこかへ行ってしまった。
ひな薔薇は物心がつく前に、この家にもらわれてきたらしい。彼女は何も覚えていない。去年の夏、同じように庭で畑仕事をしているとき、おばあさまはひな薔薇を膝の上に抱いて言った。
「あなたをもらってよかった」
おばあさまの顔に陽の光が差し、日焼けした肌が黒々と輝いて、とても綺麗だとひな薔薇は思った。
「おばあさま。私、おばあさまのところへもらわれてよかった」
五歳のひな薔薇は、にこにこしながらそう答えた。
でも、六歳のひな薔薇は少し違った。畑で風に揺れる植物を眺めながら、胸の中にひとつの不思議がぽつりと浮かんだ。
私、どこからきたんだろう。
それはやがて大きな波になって、ひな薔薇をすっかり飲み込んでしまった。ひな薔薇はおばあさまの元へ駆け寄った。
「おばあさま。私はどこからこの家にきたの?」
おばあさまはハーブを摘む手を止めて、ひな薔薇を見つめた。おばあさまはとても冷静だった。
「どうしても知りたい?」
ひな薔薇はこくりと頷いた。おばあさまは諦めたように首を横に振った。
「あなたも、もう六歳だもの。無理もないわ。ひな薔薇、よくお聞き」
おばあさまは声をひそめて言った。
「森の奥のキツネの巣の中で、小さなあなたはひとりで眠っていたの。あなたを見つけたとき、私の女の子だと思った。そのとき私はすでにお母さんと呼ばれる年齢ではなかったけれど、どうしてもあなたが欲しかった。私は小さなあなたを連れ帰って、大切に育てることにしたの。いわば、私は森からあなたをもらった」
「キツネがどうやって人の家に入るの?」
「簡単よ。キツネは化けることができるんだから。お母さんの姿になって家に入り込み、あなたをさらったの。でも、きっとキツネはあなたを育てるのは難しいと諦めて、穴を後にしたのかもしれない」
ひな薔薇は恐くなっておばあさまに抱きついた。おばあさまはひな薔薇の背中を優しく撫でながら、嘘よ、と呟いた。
「ひな薔薇、ちょっとしたおとぎ話よ。ほら。トマトを捥いでおいで。お昼はトマトスパゲッティーにしましょう」
おばあさまは微笑んだ。ひな薔薇はおばあさまの元を離れ、トマトを捥ぎとった。真っ赤なトマトを噛むと、口からあまずっぱい汁が滴った。どうして? ひな薔薇はおばあさまの嘘に納得がいかなくて、再びその元へ駆け寄った。
「おばあさま、どうして嘘をついたの? 私、とても恐かった」
「ひな薔薇。人生は嘘と本当が混じって、ひとつの本当になるの。ひな薔薇も私も、おとぎ話の中で生きているのよ」
おばあさまは、ひな薔薇の口元を指で拭いながら言った。
「ひな薔薇には風の歌が聴こえるでしょう」
ひな薔薇は耳を澄ました。静かに揺れる風の音が聴こえる。それはひな薔薇の皮膚をやさしく撫で、やがて胸の奥まで響き渡った。
「森には大きな力があるの。木々や草花、土や水、すべてが繋がっている。そしてそれは、風に乗ってあなたに教えるの。あなたは夢の森の子どもだって」
おばあさまはひな薔薇を抱きしめながらそう言った。