STORY

ひな薔薇綺譚の
物語

PROLOGUEプロローグ

  • 気が付くと私はクマに抱かれていました。
  • 温かいと思っていたのは、
  • 彼女の毛皮のせいだったのです。
  • 大きな躰と漆黒の瞳、
  • 金色の太陽のように微笑みながら、
  • 彼女は言いました。
  • いっしょに暮らしましょう。
  • 彼女はあまいハチミツの匂い、
  • 私を待っていてくれる
  • お日様みたいな
  • たったひとつの大きな手。
  • 目覚めた花みたいにほほえみながら、
  • 心の魔法はまだはじまったばかりです。

第一章
ひな薔薇

第2話ルビーとシルヴィア

静寂の森にミズナラの木は佇んでいる。それはしっかりとした幹を持ちながら、空高く伸びることを選ばず、むしろその力強さは地に根ざしている。その枝は大きく横に向かって広がり、幹は年月を重ねるごとに厚く節くれだち、ときに厳しい季節を渡ってきたことを物語っている。このミズナラの木を、ひな薔薇は親愛を込めてルビーと呼んでいる。

秋になり、ルビーは金色に燃えている。

ルビーの大きく二手に分かれた幹のくぼみに、十二歳のひな薔薇が座っている。今ではひな薔薇は、この森のほとんどのことを知っている。十歳の誕生日に、おばあさまから贈られたメッセージを、ひな薔薇は忠実に守って生きてきた。

ひな薔薇。森へ行きなさい。

森の中を走りなさい。飛び回りなさい。立ち止まって深呼吸しなさい。

空を見上げること、花を見つけること、小川のせせらぎに耳を澄ますこと。

蟻を見つめなさい。蝶々と一緒に優雅に踊りなさい。

心地の好いところまであなたの心の器を埋めなさい。

あなたが何者であるか、あなた自身が決めなさい。

あなたのルーツはこの夢の森にある。他のどこにもない。

あなたも知らない力が、あなたに眠っている。

ひな薔薇はルビーの姿形がとても好きだ。左右に伸びる枝はまるで翼で、ひな薔薇はいつかルビーは空を飛ぶと信じている。ひな薔薇はルビーのそばにいるだけでなんだか幸せだ。

ひな薔薇はそれとは知らず、ルビーの愛情に包まれている。ひな薔薇の心と躰はルビーの気配によって満ち、空のかなたまで、森の奥底まで、ずっと広がっていく。深呼吸をすると、躰中がおいしい空気でいっぱいになって、ひな薔薇はいつのまにか笑っている。お日様を浴びてルビーの葉がきらきら光っているときも、雨に濡れているときも、ただそばにいるだけで、いつでもルビーは頼もしい。

「やあ。ひな薔薇」

老キツネのシルヴィアがやってきて、ひな薔薇を呼んだ。
「シルヴィア、久しぶりね」
「ああ。森は真っ赤だし、黄色だし。どうだい? いっしょに歩かないかい?」

ひな薔薇はルビーから飛び降りた。
「行こう」
「今日はやけにノリがいいね」
「先に言っておくけど、今日はおやつを持っていないからね」
「あたしがあんたのおやつをポケットから出させて、食べちゃったことを言っているのかい? ほんの数回のことじゃないか」
「最近はいつもシルヴィアの分も、ポケットに入れて持ち歩くようにしているからねー」
「ああ。ありがたいね。さあ、行くよ」

秋の森はほろほろと美しい。黄金(きん)や深紅の木々、落ち葉の絨毯を踏みしめながら二人は歩く。小川は冷たい秋風に吹かれながら、透きとおって流れていく。木々の間を縫うように歩くと、エゾリンドウの群れがひっそりと咲いているのを見つける。

二人は黒の森に辿り着いた。黒の森では背の高いエゾマツが天に向かってそびえ立ち、空はほとんど見えない。辺りはじめじめとして、青々とした苔がきらきらと瞬いている。ここでは二人はちっぽけな点になる。シルヴィアの毛がキラキラと輝き、微かな光は星みたいだ。
「ねえ、どこに行くの?」

シルヴィアはにやりと笑った。
「見事な夕焼けを見たいと思わないかい?」
「見たい」

ひな薔薇は前のめりになって言った。
「ピンク色の空、すごく綺麗だもの」

シルヴィアは耳まで口角を上げて笑った。
「特別な場所に連れていってやるよ」
「今日はやけに優しいのね」
「あたしはいつでも優しいはずさ。あんたにだけはね」
「シルヴィアって、私のおばあさまに似ているの。ちょっといじわるで、でも優しくて、不思議なところが」
「あんたのとこの変わり者のばあさんといっしょにされちゃ、たまらないよ」
「おばあさまはシルヴィアと似ているって言ったら、すごく喜んでいたな」
「やっぱり変わり者だよ」

シルヴィアはあきれた様子で首を横に振った。
「シルヴィアのおやつを用意してくれるのも、おばあさまなんだけどな」

シルヴィアは肩をすくめてにやりと笑った。

黒の森を抜けると、ようやく二人は小高い丘に辿り着いた。薄い雲がゆったりと空を漂い、ピンク色に染まっている。遠くで鳥たちのさえずる声が聞こえる。時間が経つにつれて、空はもっと深い色に変わっていく。ピンクから紫へ、そしてゆっくり夕闇が降りてくる。ひな薔薇は夕暮れの風に吹かれながら、言葉もなくその風景を眺めている。シルヴィアは満足そうに瞬きをした。
「ひな薔薇。あんたの顔を見ればわかる。喜んでくれて、うれしいよ」
「ねえ、涙ってこんなときにも流れるものなのかな」
「あんたは泣かない子どもだからね」
「…うん。おばあさまいわく、私は涙を持たない女の子なんだって」
「そうかい、ばあさんがそう言ったんだ。でも、その話は眉唾ものだがね。ひな薔薇、この森では人間だって、涙なんて必要ないのさ。森の動物と変わりゃしないんだから。でも、あんたが泣きたいって思うほど綺麗なものを、もっと見せてやりたかったね」
「まるでもう会えないみたいな言い方ね」
「あたしはもう、あんたとはさよならさ。冬がきて、あんたの首が寒くたって、温めてあげられる毛皮もないんだ。もうシワシワだからね」
「シルヴィアの毛皮、大好きよ。キラキラしてて」

ひな薔薇はそう言って、シルヴィアの背中をゆっくり撫でた。
「黒の森の中では、あたしの毛皮も少しは役に立ったかね」
「うん。あなたの毛皮は、いつだって私の星だった」
「ありがとうよ。あたしはね、もうすぐ星になるんだ。つまり、死ぬってことさ。ひな薔薇、あんたにお願いがある。あたしは女の子の腕の中で死にたいって、ずっと夢見ていた。つまり、あんたの腕の中でね。今すぐ、あたしを抱いてくれるかい?」

ひな薔薇はシルヴィアをその腕の中に抱いた。シルヴィアの躰は暖かった。でも、その毛皮は硬く閉ざされ、そのほとんどが骨と皮だった。
「シルヴィア、本当に痩せっぽちね」
「ああ。ここまで生きてこられたのが奇跡さ。あたしが死んだら星になって、きっとあんたを見ているよ。ひな薔薇」
「だったら。夜空を見上げれば、あなたに会えるのね」
「そういうことだね。それにしても、女の子の腕の中は暖かいねえ」

二人はそれきり、何も話さず空を眺めた。そのうちシルヴィアは、ひな薔薇の腕の中で静かに目を閉じた。シルヴィアの呼吸が浅くなり、穏やかな風のように弱くなっていく。

ときどき聴こえた鳥の鳴き声も止んで、丘の上はしんとなった。シルヴィアの息はゆっくりと途絶えた。ひな薔薇は微笑むようなその死に顔にそっと頬ずりをした。丘にはすでに夜が訪れ、空には星が瞬いている。
「シルヴィア、ルビーのところに帰ろうね」

ひな薔薇はシルヴィアを抱いたまま、元来た道を歩いた。空の高いところに満月が昇り、二人の道を明るく照らした。丘を下り、黒の森を抜け、見慣れた風景の場所までやってくると、ひな薔薇にかなしみが降りてくる。

ひな薔薇は辿り着いたルビーの元に、冷たく、硬くなったシルヴィアの躰をそっと降ろした。
「ルビー。シルヴィアが死んだの。あなたのそばにいさせてあげて」

ルビーは何も言わない。いつも通り静かで、いつも通り堂々としている。ひな薔薇はシルヴィアの隣に横たわった。ひな薔薇の目の奥には、シルヴィアの小さな星が光っていた。ひな薔薇はそのまま目を閉じた。

おばあさまがルビーの元へやってきて、眠っているひな薔薇の頬に触れた。おばあさまはひな薔薇の隣に横たわるシルヴィアを見つけて、そっと手を合わせた。それからひな薔薇を抱きかかえた。

おばあさまはルビーを見上げながらしばらくの間立ち尽くし、自分の過去を追いかけた。楽しことばかりじゃなかったし、いいことばかりでもなかった。でも、私には愛する人がいた。そして今、ひな薔薇がそばにいる。

ミズナラの木よ。あなたのように季節を越え、時を越えて生き続けることができたなら。あなたのように、春の新緑、夏の陰、秋の彩り、ずっとあの子に与え続けることができるのなら。私はずっとひな薔薇に寄り添うことができるのに。

おばあさまは叶わない願いを胸に抱きながら、いつか訪れる最期の日に思いを馳せる。おばあさまは腕の中のひな薔薇に祝福を贈る。私のひな薔薇。私の女の子。私の愛するたった一人の永遠の女の子。

私の余白の人生に寄り添ったひな薔薇に幸あれ。

私の古い夢がいつか終わりを遂げますように。

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