ひな薔薇綺譚の
物語

PROLOGUEプロローグ
- 気が付くと私はクマに抱かれていました。
- 温かいと思っていたのは、
- 彼女の毛皮のせいだったのです。
- 大きな躰と漆黒の瞳、
- 金色の太陽のように微笑みながら、
- 彼女は言いました。
- いっしょに暮らしましょう。
- 彼女はあまいハチミツの匂い、
- 私を待っていてくれる
- お日様みたいな
- たったひとつの大きな手。
- 目覚めた花みたいにほほえみながら、
- 心の魔法はまだはじまったばかりです。

第一章
リバティハウス * 札幌 *
第2話水緑の魔法術

水緑はひな薔薇の部屋になるだろう場所の天井に貼りつている。今か今かと、ひな薔薇と花音がやってくるのを待ちわびた。
今日までの長い日々、キツネの名にかけて、呪文を仕込んだ。失敗は許されない。二度と同じ条件は訪れない。
この術は、ただの悪戯ではない――ひな薔薇が魂のように大切にしている洋服を解き放ち、新しい衣をまとわせるためのもの。
花音とも綿密に計画した。けれど、ひな薔薇の力を侮ってはいけない。
二人の足音が近づき、扉が開く。水緑の心臓は大きく高鳴り、まぶたを閉じて雑念を追い払った。
――いける。
♢
ここはリバティハウスで最も小さな部屋だ。天蓋付きのベッド、ピンクブルーのランプ、ビロードのカーテン。花音が優しく告げる。
「ここをあなたの部屋にするといいわ。ひな薔薇は小さい部屋が好きよね」
ひな薔薇が不思議そうに首を傾げる。
「どうして知ってるの?」
「ふふ。森の民のことは何でも知っているわ。この部屋はいちばん日当たりがよくて、庭もよく見えるのよ」
窓の外では色とりどりの薔薇が咲き乱れ、風が花びらを揺らしている。
「どうして気付かなかったのかな。そんなことってある?」
ひな薔薇のよろこびが部屋中に広がるように、あまい匂いが立ちあがった。水緑の愛する香りが鼻先をくすぐる。
ああ。みずみずしいフルーツとソーダ味のアイスキャンディ。舌がうずく、でも今は集中だ。
「薫風烈風、微風疾風、青田……」
水緑は低く、速く、呪文を紡いだ。ほぼ同時に、花音が薔薇の名を呼びはじめた。
「シリウス、リトルダーリン、イングリットウェルブル……」
二人の声が重なり、やがて水緑の声は掻き消された。水緑はますます強く念を込める。
「庭の薔薇の名前、まだまだたくさんあるのよ」
ひな薔薇は花音を見上げた。
古い記憶のように、ひな薔薇を埋め尽くすであろう薔薇たちの名前。
「ムーンダンス、ハニーパフューム、オレンジスプラッシュ……」
水緑は目を開け、尖った視線でひな薔薇を見つめる。ひな薔薇の意識が遠のきはじめ、躰がゼリー状に柔らかくなって、ぷるぷると揺れている。
突如、窓がいっせいに開いた。部屋の中を幾千もの薔薇の花びらが飛び交いながら、耳を裂く笛のような音を立てる。
魔法術によって、ひな薔薇の輪郭が溶けていくのがわかる。
この瞬間のために、私は何日も眠れない夜を過ごしてきた――
水緑は高らかに笑った。辺りは濃密な黄色い光に満たされて、ひな薔薇は宙に浮かんだ。風と花びらが刃のように周囲を切り裂き、渦となってひな薔薇を包み込んだ。
その渦の中で、空中ではじめてひな薔薇と目が合った瞬間、水緑は目を吊り上げて笑ってみせた。
ひな薔薇の髪は、雪をはらんだ糸のように漂う。まぶたは半分だけ閉じられ、呼吸は水底の泡のように浅く、かすかに震えている。
夢とうつつの境目に浮かぶ人形のように、遠い場所を見つめながら、今ここに縛られている。
「成功だわ!」
水緑はそう言い放った。とたん、ひな薔薇の洋服が引き裂かれた。