ひな薔薇綺譚の
物語
PROLOGUEプロローグ
- 気が付くと私はクマに抱かれていました。
- 温かいと思っていたのは、
- 彼女の毛皮のせいだったのです。
- 大きな躰と漆黒の瞳、
- 金色の太陽のように微笑みながら、
- 彼女は言いました。
- いっしょに暮らしましょう。
- 彼女はあまいハチミツの匂い、
- 私を待っていてくれる
- お日様みたいな
- たったひとつの大きな手。
- 目覚めた花みたいにほほえみながら、
- 心の魔法はまだはじまったばかりです。
第一章
ひな薔薇
第3話おばあさまの花園
冬になってから、おばあさまは眠っていることが多くなった。少し疲れたみたい。おばあさまはそう言って、昨日からずっと眠り続けている。少し風が出てきたようで、窓がカタカタ鳴っている。窓の外では雪が降っている。
「おばあさま」
夜になっても起きてこないおばあさまを心配して、ひな薔薇は声を掛けた。おばあさまは薄目を開けて、ひな薔薇を見た。ひな薔薇は皺の寄ったおばあさまの頬に触れた。温かい。
「ああ。よく眠った。でも、まだ夜ね。ひな薔薇、久しぶりにいっしょに寝ましょう」
ひな薔薇はこくりと頷いて、おばあさまのベッドに潜り込んだ。ひな薔薇は十九歳になった今も、ときどきおばあさまといっしょに眠る。おばあさまの匂いがすると、ひな薔薇は安心する。
おばあさまのベッドはいつもと同じように暖かかった。でも、おばあさまからいつもとは違う匂いがして、ひな薔薇はそれを不安に思った。ひな薔薇は、おばあさまの枯れ葉のような匂いに寄り添った。
おばあさまはいつものようににこにこしていた。顔色は優れなったし、今にも目を閉じそうだったけれど、笑っていた。おばあさまがベッドから手を差し出し、ひな薔薇の手を探している。ひな薔薇がその手をきゅっと握ると、おばあさまは安心したように、ありがとう、と言った。
「ひな薔薇。私が死んだ後、どこへ行くと思う?」
「天国?」
「ううん。もっといいところ。私の好きな花がたくさん咲いている花園に行くの」
「私も行きたいな」
「ひな薔薇には、まだずいぶん先の話かな。あなたももう大人なんだから、わかるでしょう」
「おばあさまは、本当に私を大人だと思っている?」
「ふふ。あなたはいつまでも私のかわいい女の子よ。私は花園に行くのだから、死んだ後も今と同じくらい幸せなの。ひな薔薇がこの家にきてくれた日から、私はずっと幸せだった。あなたが私のところにきてくれてよかった」
「おばあさま。私がもっとおばあさまを幸せにしてあげる」
「ひな薔薇、ありがとう。でも、私はまもなく花園へ行くの。これからは、あなたはあなたの好きな場所で生きていきなさい」
おばあさまは嘘つきの天才だ。今の話もぜんぶ嘘だといい。ひな薔薇は、おばあさまの温かな手を握りしめながらそう思った。
新月の日、夜は静かに深まり、部屋ではオレンジ色の灯がともっている。ひな薔薇はおばあさまの手を握りしめて、その温もりを感じている。おばあさまの目は閉じられたままだ。
ひな薔薇は痩せて灰色になったおばあさまの足をさすった。そうすると、昨日までのおばあさまなら、薄目を開けてひな薔薇を見つめることがあった。おばあさま、気持ちが好い? そう訊くとおばあさまは微かに瞬きをして応えるのだった。
でも、今日のおばあさまの瞼は閉じられたままで、ひな薔薇は枯れ木のようなおばあさまの冷たい足から手を引いた。
おばあさまの呼吸がもうすぐ止まる。かなしい予感がよぎると、ひな薔薇は恐くて震えた。そして祈るようにおばあさまの手を握りしめた。
ひな薔薇は恐い夢を見ているわけじゃない。でも、うまく呼吸ができない。おばあさま、と呼んでみても、声は散り散りになって消えていく。おばあさまのいない世界が想像できない。今すぐ何もかも、この世から消えてなくなってしまえばいいのに。窓の外に白い影が見える。ふわふわと雪が降ってきた。誰もおばあさまを連れていかないで。
明け方、おばあさまは天に召された。微笑むような穏やかな顔で、藍色の影を纏い、おばあさまは静かに生命の終わりを遂げた。
ひな薔薇は深い水底に放り出されたように独りぼっちになった。
ひな薔薇はおばあさまが亡くなった後も、その亡霊と一緒に暮らし続けた。ひな薔薇は今でもおばあさまの声を聴き、ぬくもりを感じている。おばあさまの骨を抱きしめながら一緒にごはんを食べ、針仕事をする。おばあさまの裁縫箱は、いつもの場所にいつも通り。
おばあさまの作ってくれた洋服を着る。何も変わらない。今日もおばあさまの骨を抱きしめながら、ひな薔薇は台所に向かう。
「おばあさま、温かなスープができたわ。今日は寒いからたくさん食べてね」
おばあさまはありがとう、と笑って応えてくれる。
「おいしい?」
――おいしい
「胡椒を入れすぎたかもしれない。辛くない?」
――辛くない
「おばあさま、雪が降ってきた」
――雪が降ってきた
おばあさまの声は雪に吸収されて、それきり聴こえなくなった。ひな薔薇はスープの上に、自分の涙が零れた落ちるところを想像した。泣くってどういうことなんだろう。涙って綺麗なものなのかな。
「おばあさま、おばあさま」
ひな薔薇はテーブルにスプーンを置いた。ことり、と部屋の中に音が鳴り響いた。
おばあさまの残酷な嘘。
ひな薔薇が十五歳の秋のことだ。おばあさまは台所でアップルパイを焼いていた。家の中はバターとシナモンの好い香りがして、やがてオーブンのタイマーが出来上がりのときを知らせた。
ひな薔薇はミントとカモミールのお茶を淹れてから、テーブルに着いた。おばあさまは焼きたてのアップルパイを皿に乗せている。外は厚い雲に覆われて、今にも雨が降りそうだった。おばあさまはひな薔薇の前に皿を置くと、ゆっくりと椅子に座った。
「今日はクルミとレーズンも入れて焼いてみたの。とても贅沢なアップルパイよ」
ひな薔薇は金色に発光するアップルパイを頬張る。それは、今までおばあさまが作ったどのお菓子よりおいしかった。
「おばあさま。今までの、どのお菓子よりおいしい」
よかったわ、とおばあさまは微笑んだ。やがて雨が降り出した。
「秋の長雨かしら」
おばあさまはお茶を飲みながら言った。おばあさまは至福のアップルパイを前に、一口も口にしていなかった。ひな薔薇はそれが不思議だった。
「おばあさまは食べないの?」
「全部、ひな薔薇にあげてもいいくらい」
おばあさまの目は優しかった。優しすぎて恐かった。生ぬるい空気と雨の音で、台所は海の底のように昏く満ちていった。
「昏くなってきたわね」
「うん」
ひな薔薇はおばあさまの言葉に頷いた。おばあさまの声色が微かに変わった。
「ねえ、ひな薔薇。秘密を教えてあげようか?」
「秘密?」
「これから話すことこそ、本当のことよ」
おばあさまの顔はいつになく真剣で、ひな薔薇は嫌な予感がした。
「あなたが生まれてまもなく、私の親友夫婦が外国で暮らすことになったの。二人ともとても勇敢なお医者さんで、どうしても人を助ける仕事を続けたかった。二人の向かう先がとても危険な地域だったから、数年して二人が帰ってくるまでの間、あなたを私に預けていったの。しばらくの間、私は二人と連絡を取り合っていた。あなたの写真もよく送ったわ。でも、途中で、二人と連絡が取れなくなってしまった」
おばあさまは一息ついて、お茶を飲んだ。
「二人は死んでしまったの?」
おばあさまは首を横に振った。
「わからない。でも、おそらくは。部屋に二人の親友の写真があるわ。あなたに見せるのは、まだ先のことだと思っていたけれど」
おばあさまは真っすぐにひな薔薇を見つめた。おばあさまの瞳が潤んでいるような気がした。写真もあると言っている。でも、多分本当のことじゃない。ひな薔薇は立ち上がろうとするおばあさまを、その手で止めて言った。
「おばあさまは嘘をついている」
おばあさまはにこりと笑った。
「嘘じゃないわ。あなたにパパとママの写真を見せてあげる」
おばあさまは写真を探しにいった。おばあさまなんて大嫌い。ひな薔薇は小さな声で呟いた。
寝室の部屋のドアを開けておばあさまがぱたぱたと歩く音が聴こえて、ひな薔薇の胸は鳴った。すごく変な人たちだったらどうしよう、と思った。でも、そんな心配は無用だった。
おばあさまから渡された写真には、とても綺麗な男の人と女の人が写っていた。まるで映画スターみたい、とひな薔薇は思った。
「ママはあなたに目元が似ているでしょう」
おばあさまはそう言った。言われてみればそう思えないこともなかったけれど、似ても似つかないような気もする。でも、いくらおばあさまでも、ここまで手の込んだ嘘はつかないだろう。
「ひな薔薇。信じた?」
くすくすとおばあさまは笑った。
「これは私が昔好きだったスターの写真。手に入れるのに苦労したんだから。永久保存版よ」
ひな薔薇はくやしくて唇を噛み締めた。おばあさまはひな薔薇の髪の毛をくしゃくしゃに撫でながら言った。
「どうしてかな。ときどきあなたがかわいすぎて、めちゃくちゃにしたくなるの」
「おばあさまのいじわる」
ひな薔薇が声を震わせてそう言うと、おばあさまは彼女の頬に触れて言った。
「涙が出ないって、どんな気持ちなんだろう」
おばあさまはひな薔薇の瞼にキスをした。ひな薔薇は思う。あのとき、もしかするとおばあさまは私の涙を探していたのだろうか。まさか。そんなあまいおばあさまじゃない。
おばあさまは花園に行くと言っていたけれど、きっと別の場所にいる。そこには花も木もなくて、小さな沼のような湖が浮かんでいる。おばあさまは湖に自分の顔を映して、憂いながら笑っている。仕方がないのよ、ひな薔薇。きっとそう言って。おばあさまはどこか堕落していて投げやりで、それでいて天使だった。おばあさまに天国は似合わない。
ひな薔薇は微笑んだ。しんとした家。透明の幕がひな薔薇を守るように包みこむ。ひな薔薇は、それをもろともせずに脱ぎ捨てる。おばあさまがひな薔薇につけた傷のひとつひとつが、いとしいと思った。
窓の外に広がる遠い雪の森。ひな薔薇はおばあさまが編んでくれた白いセーターとミトンを身に着けると、外へ出た。白は何もかも吸いんでしまう色。ひな薔薇は冷たい雪に触れたかった。躰は熱を秘めて風を切る。雪に包まれると、心が軽くなった。
ひな薔薇は今はじめて目覚めたように、足先に力を込めて立ち尽くした。
自分の求めるままこの先進む。私は雪になろう。