STORY

ひな薔薇綺譚の
物語

PROLOGUEプロローグ

  • 気が付くと私はクマに抱かれていました。
  • 温かいと思っていたのは、
  • 彼女の毛皮のせいだったのです。
  • 大きな躰と漆黒の瞳、
  • 金色の太陽のように微笑みながら、
  • 彼女は言いました。
  • いっしょに暮らしましょう。
  • 彼女はあまいハチミツの匂い、
  • 私を待っていてくれる
  • お日様みたいな
  • たったひとつの大きな手。
  • 目覚めた花みたいにほほえみながら、
  • 心の魔法はまだはじまったばかりです。

第一章
ひな薔薇

第4話再びルビー

雪の森はしんとして、無音の世界が広がっている。木々は天に向かって祈るように立ち、雪の結晶がひな薔薇に降りつもっていく。ひな薔薇は空を見上げる。もう何もいらない。ひな薔薇の白い息が空中に広がっていく。

ひな薔薇は森の奥へと向かう。冬の森には道がない。ひな薔薇はユキウサギの足跡を見つけて、それを追いかけるように雪を漕いでいく。雪に風が混じってきた。ひな薔薇の頬に風雪が吹き、手足はどんどん冷たくなっていく。

真っ白になりたい。ひな薔薇はそう願う。今、過去も未来もひな薔薇を通りすぎ、空白に向かっていると感じる。なんて気持ちがいいんだろう。ぜんぶが遠い。見たことのない純白が、ひな薔薇の前に広がっている。

ひな薔薇は真っすぐに白に向かった。手足の指先が白くなり、腕が、胸が、頬が白くなり、唇が白くなっていく。すぐにでも、躰のすべてが白く変化することをひな薔薇は願った。私はこのまま雪になるのかもしれない。そうなるといい。

ひな薔薇は親愛なるミズナラの木にたどり着き、寄り添った。ルビー、久しぶり。ひな薔薇は安堵し、とろんと瞼が降りてきた。深く眠れそうだと思った。躰の冷たさも消えていく。ルビーのそばでゆっくり眠ろう。それから雪になってルビーの上に降りつもりたい。ひな薔薇はルビーの下で横になり、目を閉じた。真っ白な世界が広がった。

ルビーは樹皮を揺らし、ひな薔薇に振動を与えた。眠ってはいけない。ルビーはその枝でひな薔薇を支え、太い幹の中へ迎える準備をする。幹は開かれ、空洞になり、樹齢三百年、ルーツの源を結集する。

ひな薔薇はルビーに導かれ、幹の空洞に収まった。胸の上で腕を交差し、髪を逆立て、その精気を受け容れる。それはまるい波紋になって、ひな薔薇に浸透していく。ひな薔薇に意識はない。ただ、ひな薔薇は、意識がなくてもルビーが見えたし、できたらその手で触れたいとも思っている。

ルビーの源がひな薔薇に流れるたび、その気力は波のように高まっていく。夜になり、ようやくひな薔薇の指先が微かに動き、頬に紅が差しはじめると、ルビーは満ち足りた深い声でひな薔薇に話しかける。
「ひな薔薇、目を開けて」

ひな薔薇はルビーの言葉に微かに反応する。生気が蘇りつつある。ルビーは大きな枝ぶりの腕で、ひな薔薇を自らの天辺まで導いた。
「ひな薔薇、目を開けるんだ」

ひな薔薇はうっすらと目を開ける。ここはこの世の終りじゃない。ひな薔薇は失意の中、遠くを見つめた。小さな灯りが揺れているのが見える。

雪になりたかった。家に一人でいるとき、緊張することに飽きて吐きそうだった。暖かな部屋でスープを飲んで眠るより、冷たい雪の中で凍える方がいい。私は名前を叫ぶ雪になって、誰かに降りつもりたかった。たとえばルビーに、たとえば動物の死骸の上に、たとえば知らない誰かの髪の上に。

そうすれば、きっとみんな私のことを思い出す。それから私は、焼きつくような太陽になって、みんなを真っ白に照らしたかった。すべて白に焼き尽くして、やがて鮮やかな花が咲きほこるまでそうしていたかった。
「灯りが見えるだろう。獣の家だ。ここからそう遠くない」
柔らかな声が囁く。その声のせいでひな薔薇は、夢の世界から現実の世界へ、完全に引き戻された。
「誰?」
「ミズナラの木ルビーだ。おまえが私につけた名前だろう」
「ルビー」
「おまえはもう大丈夫だ。ただし、躰を温めなければ死んでしまう。私はおまえに温もりを与えることができない」
「本当にルビーなの?」

ひな薔薇は呟いた。ルビーは枝を震わせて応えた。ルビーが織りなす夏の木陰で、何度遊んだことだろう。真っ赤に燃える秋のルビーに、どれだけ憧れたことだろう。ひな薔薇は、ルビーの枝をそっと抱いた。
「夢を見ていたのかな、私」
「目を瞑っているからって、いつでも目の奥に闇が広がっているわけじゃない。私だって夢を見ることがある」
「ルビーも? どんな夢?」
「ひとつも覚えていない。いつも余韻だけが残っている。光とか、雨とか、雪とか、そんなちっぽけな余韻だけだ。でも、私は夢を見るのが好きだよ」
「私、ルビーの夢になりたい」
「ひな薔薇は私の夢の一部だ」
「私が?」
「ああ。おまえの光はじわじわと誰かを温める。とても素敵な余韻だ。ひな薔薇はそういう子どもだよ」
「私はルビーの夢の中で、あなたを温めている?」
「そうだよ、ひな薔薇」
「私、雪にならなかったのね」
「ああ。雪にはならなかった」
「私、雪になりたかった」
「雪にはいつだってなれる」
「ここにいちゃいけない?」
「今は躰を温めるんだよ。そしておまえには、あの家に棲む獣の力が必要だ」
「温かいところはとても緊張する。私は温かいパンとスープを食べながら、自分が腐っていく夢を見る。温かなベッドの中で、躰がどんどん膨らんで、裂けてしまうんじゃないかって思うことがある。そんなとき、冷たい空気の中を走りたくなる。雪になりたいと思う。だから冬の森にきたの。私は冬の森の一節になりたいだけ」
「生きるんだ、ひな薔薇」

開いた幹をルビーは音を立てて閉じはじめる。耳が張り裂けそうな苦々しいその音に、ひな薔薇は思わず耳を塞いだ。
「ひな薔薇、耳を開きさない。私の声を聴きなさい。私の力を思い知りなさい。おまえの命はおまえだけのものじゃない」

ルビーの朽ちた枝がどさりと地面に落ちた。ひな薔薇は両手で顔を覆った。
「ひな薔薇、目を開きなさい」
「ルビー、私のせいなの?」
「誰のせいでもない。古くなった私の一部が朽ちて閉ざされただけだ。私は何度でも蘇る。ひな薔薇。目と耳を開いて感じなさい。喜びもかなしみも、おまえのものだよ」
「…私、躰を温めたい」

ひな薔薇は凍える自分の躰を抱きしめてそう言った。
「いい子だ。ひな薔薇、行きなさい。歩いていけるね?」
「うん」
「ひな薔薇、また会おう」
「きっと。ルビー、ありがとう」

ひな薔薇はルビーの天辺から飛び降り、雪の地上に着地した。不適に雪が舞い散る中心に、ひな薔薇はいた。ひな薔薇は獣の家に向かって歩きだした。

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