ひな薔薇綺譚の
物語
PROLOGUEプロローグ
- 気が付くと私はクマに抱かれていました。
- 温かいと思っていたのは、
- 彼女の毛皮のせいだったのです。
- 大きな躰と漆黒の瞳、
- 金色の太陽のように微笑みながら、
- 彼女は言いました。
- いっしょに暮らしましょう。
- 彼女はあまいハチミツの匂い、
- 私を待っていてくれる
- お日様みたいな
- たったひとつの大きな手。
- 目覚めた花みたいにほほえみながら、
- 心の魔法はまだはじまったばかりです。
第一章
ひな薔薇
第5話森の女王
雪が止み、月明かりがぼんやりと森を照らして、ひな薔薇の長い影が雪の上に映る。足元には柔らかな新雪が広がっている。
夜の森では獣の家の灯はひときわ目立ち、離れた場所からも明るく見える。ひな薔薇は光の方へ、真っすぐに雪を漕いで渡った。ようやくたどり着いた獣の家は、楕円形の不思議な形をしている。家の屋根は雪の帽子をかぶり、まるい形の扉の横に、オレンジ色の灯りがともっている。
暖かな家に引き寄せられるように、ひな薔薇は扉をノックした。返事はない。ひな薔薇はそっと扉を開けて中へ入る。まるでほら穴そのもののような部屋の中で、暖炉の炎が明るく揺れている。
テーブルには湯気の上がった紅茶が二つ用意され、その香気が部屋中に満ちている。ひな薔薇から、少しずつ冷たさが零れおちていく。
ひな薔薇はテーブルに腰掛け、紅茶を一口飲んだ。温かさが躰中にじんわりと染み渡っていく。ひな薔薇はそのまま紅茶を飲み干した。
「私、生きてる」
ひな薔薇は呟いた。息をひそめて雪になることを望んでいたのに、こんなにも温かなことがうれしい。ひな薔薇はそれでもなお雪のことを思い出して、じっと堪えるように動かなくなった。
「ようこそ、雪の森へ」
いつのまにか、テーブルの向かいの席に大きなクマが座っている。ひな薔薇の意識はようやくこの暖かな部屋に戻ってきて、目の前の獣を見つめた。
ひな薔薇はこの森ではじめてクマに出会った。つやつやとした茶色い毛並みは美しく、その瞳は黒々として可愛らしい。しかし、クマが歯を剥き出して笑うと、ひな薔薇は一瞬息をのんだ。
「紅茶のおかわりはいかが?」
「私、お茶を勝手に飲んでしまったの」
「いいのよ。あなたのためのお茶だもの」
「ありがとう」
「どうしたしまして。ひな薔薇」
「…私の名前を知っているの?」
「わたくしは森の女王、花音。森から永遠の命を与えられた者。森の住人のことなら、何でも知っている」
「何でも?」
花音は頷いた。
「ひとつ、訊いていい?」
「何かしら?」
「あなたって女の子なの?」
優雅に微笑みながら、花音はゆっくりと頷いた。
はらぺこのひな薔薇に花音が準備してくれた食事は、皿に乗った二つの目玉焼きにハチミツを垂らしたものだ。金色のハチミツをそっとフォークにしのばせて、ひな薔薇はそれを舐めてみる。とても陽気な味がする。たまごは懐かしい味がした。
「お菓子みたいな味がする」
「クマの家の定番よ」
花音は優雅に笑った。
「ひな菊のことは残念だったわ。でも、あの子の寿命よ」
ひな薔薇は目を伏せて、フォークを皿の上に置いた。
「おばあさまのことも知っているのね」
「ずっと昔からね」
花音はコポコポと音をたてて、二杯目の紅茶を注いだ。
「朽ちていく森の家に、あなたを一人にしたりしない。こういうのはどうかしら」
伏せ目がちに花音は言った。
「春になったら、街の家でわたくしといっしょに暮らす。そこには仲間がいて、あなたは必然的にその者たちともいっしょに暮らすことになる。キタキツネの水緑、ユキウサギの空雪、ヒツジのメイ。皆、動物であり人でもある。わたくしがそれを可能にしている」
ひな薔薇はティーカップから立ち上がる湯気を見つめる。ひな薔薇はゆっくりと花音に視線を移す。
「そこには大きなキッチンがあって、ダイニングがある。そこでみんなと食事をする。何だって好きなものを食べるといい。コックが何でも拵えてくれる」
「何でも?」
「そう。何でも」
花音は紅茶を一口飲んでから、ゆっくりと微笑んだ。
「そこではみんな、どんな暮らしをしているの?」
「リバティハウスでは、みんなそれぞれ仕事を持っている。わたくしの仕事は洋服デザイナー。わたくしを表現するもの、その手段の一つとしてわたくしは洋服を選んだ。みな、わたくしのデザインした洋服を求めてリバティハウスを訪れる。もちろんすべてオーダーメイド。彼や彼女の思考、容姿、環境、仕草、象徴する心の太陽や雨、その者の成りたちのすべてを把握し、心を尽くし最高の一着を作り上げる」
「…想像もつかない」
「ええ。まさに想像もつかない美しさよ。仕上がった夢の洋服を身に着けると、誰もが免れない気持ちになる。袖を通したら最後、取り返しがつかない。誰もが自分自身から決して逃れられない。愛と屈辱、混乱と秩序、やがて自分自身の美しさに目覚めるとき、深い幸福が訪れる。その麗しい微笑みと穏やかな心のさざめき、誇り高き薔薇色の頬」
ひな薔薇の頭の中で、得も言われぬ薫りの音楽が鳴りひびいた。それはひな薔薇にとってまったく新しい旋律で、いつまでも花音の言葉の海に溺れていたいと願った。
やすらぎと緊張の両方が波のように押し寄せて、ひな薔薇の胸は震えた。その頬は薔薇色に染まり、微笑みとも泣き顔ともつかない表情でひな薔薇は顔を歪ませた。ひな薔薇は心底驚いたのだ。
「すべてのものはみな等しく可憐なのよ。誰もが心の中に美しさとかわいらしさを秘めている。ひな薔薇、あなたもね」
「私、リバティハウスに行きたい」
ひな薔薇は思わず声をあげた。当然ね、とでも言いたげに花音は微笑んだ。
「花音、そこに私の部屋はある?」
「もちろん。昔の恋人から譲り受けた、とても大きな邸だもの」
「恋人って…」
「もちろん人間よ。わたくしは獣であり、人であり、森の女王である」
花音は胸の毛を逆立ててそう言った。ひな薔薇はごくりと唾を呑み込んだ。
「かつての恋人、彼は優しい人だったわ。彼は家族に恵まれないお金持ちで、わたくしに邸と財産を託して死んでいった。わたくしは今も、その古い邸を守りながら暮らしている」
「花音は今も、恋人の記憶を大切にしながら生きているのね」
それはどうかしら、と花音はにやりと笑った。
「どちらかというと、昔の思い出に過ぎないわね。だからって、思い出も美しいものに違いないわ。さて」
花音はあくびをしながら言った。
「ひな薔薇、今夜はここでいっしょに眠りましょう。かなしみは、わたくしの胸で癒すといい」
「花音と?」
「わたくしの毛皮はとても温かいわ。わたくしがあなたのベッドになってあげる」
「あなたと眠りたい」
ひな薔薇がそう答えると、花音は床にごろりと横になった。
「おいで。ひな薔薇」
ひな薔薇は花音の腕の中に潜り込んだ。心地よい温もりがひな薔薇を包む。
「ひな薔薇。いっしょに暮らしましょう」
ひな薔薇は微笑みながら頷いた。
「この家はあなたがこうして眠るための場所なのね」
「ええ。そうよ」
「花音。いつかおばあさまの話を聞かせて。おばあさまは嘘の天才だった。嘘つきだけど、それが本当になる瞬間があった。おばあさまの嘘は私の宝物だった」
「いつか、きっとひな菊の話をしましょう」
「ありがとう」
花音は静かに躰を揺らした。花音のゆりかごに揺られて、ひな薔薇は気が遠くなっていく。ぱちぱちと薪がはぜる音。花音の息遣い。いまだ紅茶の残り香が漂う部屋で、ひな薔薇は静かに眠りについた。