STORY

ひな薔薇綺譚の
物語

PROLOGUEプロローグ

  • 気が付くと私はクマに抱かれていました。
  • 温かいと思っていたのは、
  • 彼女の毛皮のせいだったのです。
  • 大きな躰と漆黒の瞳、
  • 金色の太陽のように微笑みながら、
  • 彼女は言いました。
  • いっしょに暮らしましょう。
  • 彼女はあまいハチミツの匂い、
  • 私を待っていてくれる
  • お日様みたいな
  • たったひとつの大きな手。
  • 目覚めた花みたいにほほえみながら、
  • 心の魔法はまだはじまったばかりです。

第二章
リバティハウス

第1話リバティハウス 

イラスト ♢ カロ

リバティハウスは大通公園の外れに建つ、石造りの古いやしきである。赤い屋根とグレーの壁、無限の窓、その美しさゆえにまるで架空のもののように語られることがあるけれど、確かにリバティハウスはここにあって、化身化人間化した動物たちが暮らしている。動物たちはそれぞれの道を経て、ここに辿り着いた。花音という道標に導かれて、彼らはこの夢の邸で生きている。

キタキツネの水緑は、二階の窓からひな薔薇が歩いてくるのを確認する。新たに花音が選んだ相棒を、自分なりのやり方で祝福したい、と待ち構えていたのだ。大きなボストンバッグを持ったひな薔薇は、シンプルな生成り色のワンピースを纏っている。繊細に見えるけれど力強い、張りのある丈夫な木綿の充実感だ。

水緑はもうすぐひな薔薇の部屋になる場所から声を掛ける。風のような呪文のような声が、ひな薔薇の名前を呼んだ。ひな薔薇は微かに反応して、左右に首を揺らした。それから耳を澄ましているみたいに、じっと動かなくなった。声の主を探しているのかもしれない。水緑はほくそ笑む。
「ひな薔薇さま、はじめまして。執事のメイでございます」
 ドアを開けて、ヒツジの執事であるメイがやってきた。
「ようこそいらっしゃいました。どうぞ、中へ」
「はじめまして。ひな薔薇です」
「お荷物、お持ちいたします」
「ううん。重いので」
「いいえ。お任せを」 
 メイはそう言って、ひな薔薇からボストンバッグを受け取った。
「おや、これは…!」
 メイはよろめきながらそう言った。
「これは到底常人が、ましてや女の子が持って耐えられる重さのものではございませぬ」
 ほぉ…と水緑は声をあげる。
「ごめんなさい。私が持つ」
「いいえ。このような重い荷物をお一人で持ってこられた。わたしはそれについて、少しばかり感激しております」
「宝物を詰めこんできたの」
「宝物を。それは素敵ですね」
 メイに導かれてひな薔薇はリバティハウスに足を踏み入れた。
 水緑はひな薔薇の一挙手一投足を見逃さないよう、すでにリビングルームの天井に張りついている。
 光が降り注ぐエントランスを通って、ひな薔薇はリビングルームにやってきた。
 豪奢なそこは宮殿さながらの出で立ち、クイーンアン脚が施されたソファーやテーブル、たっぷりとし たドレープのビロードのカーテン、百万本とも思われる薔薇の花々がそこいら中に飾られている。
「ここはお城なの?」
 ひな薔薇の頬が紅色に変わった。
 水緑は天井から灰色の光を送り、それを消し去ろうとたくらんでみる。強い邪推があれば、当然ひな薔薇から色は消え失せる。
 しかしひな薔薇は暗色もろともせず、その頬をますます輝かせた。幸運にも花音が現れたのだ。

睫毛の先にダイアモンド、
 蜜が滴る赤い唇、
 波打つロングヘアは華やかに膨らみ、
 リボンが蝶のように揺れている。
 華奢なレースを幾重に重ねた重厚な襟と袖をあつらえ、
 パニエで膨らむパープルのドレスは嵐を孕む、
 ウエストにサディスティックな大輪の花。

「リバティハウスへようこそ」
「花音の声。あなたは花音なの?」
「そうよ。わたくしよ」
「花音」
 ひな薔薇は花音の胸に顔をうずめた。
「ゆっくりおばあさまとお別れができたみたいね」
 ひな薔薇はこくりと頷いた。
「待っていたのよ」
 ひな薔薇は耳元でささやく花音の声に、うっとりと微笑みを浮かべた。

花音はひな薔薇を連れて、ティールームやキッチン、ダイニングルームを案内した。その一つ一つが古くて懐かしく、それでいて手入れが行き届き、どれも磨き抜かれて光を放っている。過去からずっと、そして今でも大切に扱われている証拠だ。
「私、この家の何もかもが好きになりそう」
 ひな薔薇は瞳をくるくると動かしながら、花音の後に着いて歩く。森の家に住んでいたんだもの、当然ね。水緑はにやりと笑う。

一階の案内が終わると、花音とひな薔薇はエントランスホールから続く螺旋階段を昇り、二階へ向かった。二階には廊下に沿っていくつもの、古くて美しいドアが並んでいる。
「古い時間の中に迷い込んだみたい。不思議なんだけど、ぜんぶのドアを開けてみたくなる」
「ひな薔薇、当然よ。ドアの向こう側に、あなたの知らないあなたがいるんだもの」
「私の知らない私?」
「そうよ。あなたはこの部屋のうちのどこかで、あなたの知らないあなた自身に出会うかもしれない。いつ、どの部屋のドアを開けるか、あなた次第よ」
 ただし、いいことばかりとは限らない。水緑はそう思って天井からにやりと笑う。
「私、ぜんぶのドアを開けてみたい。知らない私に会ってみたい」
「ひな薔薇の胸の音が聴こえるみたい」
「うん。ドキドキしてる。何も知らない私。誰かが知っている私。新しい私に出会って、そしてまたドアを閉じていくの」
「ひな薔薇、あなたって子は。せっかく開けたドアを閉じちゃうのね」
「…いけない?」
 花音は高らかに声を上げて笑った。水緑はふぅ…と息をつく。
「さあ。あなたの部屋に行く前に、大広間に行きましょう」

水緑は天井を這い、おもむろに大広間へと向かう。大広間は今ではほとんど使われなくなった、最高に華やかな部屋である。
「ここよ」
 大広間の前で花音が微笑むと、次の瞬間、巨大なドアがゆっくりと開いた。まばゆい金色がひな薔薇の前に広がった。
 天井にはクリスタルランプが輝き、美しい絨毯が敷かれ、白い壁に天使の絵画が連なっている。ひな薔薇はその一つ一つを目で追いかける。
「天使たちは近づいても揺れないふわふわで、たくさんの星」
 くすりと水緑は笑う。何を言っているのかな、あの子は。

ひな薔薇は楽しそうだ。前を歩く花音のことも忘れてしまったかのように、たったひとりぼっちで天使とたわむれている。

「ひな薔薇、いらっしゃい」

花音はそんなひな薔薇の手を取って、広間の中央まで連れ去った。
「昔はここで舞踏会を開いたこともあったわ。あのときのすばらしいドレスとダンスをいまだに憶えている。楽しい夜だった」

花音はひな薔薇の手を握ったままハミング、そしてくるりと回る。ひな薔薇はそれに合わせて回転する。そしてすぐにもう一回転。
「花音とダンスね」

ひな薔薇は鮮やかにターンを決めて言った。
「わたくしについてこれるかしら?」
「ダンスは大好き。森で蝶々と踊っていたの」
「あなた、なかなかのものね」

花音がダイナミックなステップを踏みながらワルツを口ずさむと、ひな薔薇はそれに合わせて軽快に足を滑らせる。

水緑は驚きを隠せない。ひな薔薇の意外な身の軽さ、しなやかな躰。まるで風のようだ。
花音の高らかな笑い声が響き渡る。
「ああ。なんて楽しいの!」

二人のダンスが白熱すればするほど、ひな薔薇は瞬く瞳を見せつける。二人だけの舞踏会のはじまりだ。

水緑は誘惑の舟に揺られている。今すぐにでも飛び出していって、一緒に踊りたい。我慢したくない。私にとって、内に秘めるは悪。でも、悔しいけれどこれから大事な仕事が待っている。水緑は固く唇を結び、瞳に情熱を燃やしながら、部屋の影から影へと移動して、音もなくその場所から立ち去った。

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